眞田10万石祭りツアーのパンフレット
眞田10万石祭り 1日目 眞田宝物館・眞田邸 屏風解説 大阪夏の陣図屏風 (徳川側 上より) ・ 前田 利常 [指物:白地に梅鉢紋] ・ 藤堂 高虎 [指物:白地(藍色地等も有り)に石餅三つ] ・ 徳川 秀忠 [指物:白地に葵紋と総白招き、大馬印は金開扇] ・ 井伊 直孝 [赤字井桁紋、指物:総赤に八幡大菩薩] ・ 黒田 長政 [指物:黒地に中白] ・ 加藤 嘉明 [指物:黒地に十文字] ・ 水野 勝成 [指物:沢瀉紋] ・ 土井 利勝 [指物:白地に六つ水車紋] ・ 伊達 正宗 [指物:白地に竹に雀紋] ・ 片倉 重綱 [指物:白地に釣鐘] ・ 松平 忠輝 [指物:白地に葵紋] ・ 松平 忠直 [指物:白地に葵紋、馬印:総白に二線吹貫] ・ 徳川 義直 [指物:白地に葵紋] ・ 徳川 家康 [指物:白地に総白招き、大馬印は金開扇、使者指物に五or伍印] ・ 小笠原 秀政[指物:白地に三階菱紋] ・ 松平 忠明 [指物:藍地に釘抜き紋] ・ 徳川 頼宣 [指物:白地に葵紋] (豊臣側 上より) ・ 大野 治房 [指物:白地に鉈紋] ・ 毛利 勝永 [指物:白黒段々] ・ 豊臣 秀頼 [馬印:瓢箪] ・ 真田 幸村 [指物:総赤に総赤招き] ・ 大野 治長 [指物:白地に宇都宮傘] ・ 明石 全登 [指物:白地に花菱久留巣]
こういう見方も面白いと思うので、自分でも調べてみてください。私は知的遊戯への誘いをする伝道士なのです。 この頃の鉄砲装備率は兵員の1割程度でしたが、伊達政宗軍は3割程度の装備率で、城攻め前日の道明寺の戦いでは、3,400丁の鉄砲で後藤基次の軍を壊滅させています。 しかし、この大阪夏の陣では、伊達政宗とその後詰の松平忠輝の軍は陣形を保つ程度の戦闘しかせず、真田幸村の軍とはまともに戦かわなかったようです。 むしろ、伊達政宗の軍は、徳川軍先鋒の 神保 相茂 300の軍勢が、真田幸村の軍に蹴散らされ敗走してくるのを共崩れになるとして、鉄砲隊で射撃し、全滅させていますが、思い切って真田と呼応して家康・秀忠を討ち取る事まではしませんでした。 大阪夏の陣の16年前に伊達政宗の 五郎 八 姫と松平忠輝は、徳川家康により政略結婚させられていましたが、伊達政宗は逆にこれを利用し、徳川秀忠の対抗馬として松平忠輝を推して天下制覇を目論んでいた節があります。 また、松平忠輝の後見人には、徳川家康の金庫番の大久保長安が就任しており、伊達政宗は彼に親しく接していました。 この大久保長安は技術開発の神様みたいな人で、その功績に対して一定額を受領する事が一般的でありましたが、多くの生産性向上を行った結果、70万両という巨額の資産を有していた為、彼の死後全財産没収と、その子供や親しくしていた関係者は死罪となっています。 徳川家康の病死後、秀忠は、忠輝を改易島流しとし、伊達政宗には忠輝と縁切りのみの処分としています。これは、徳川を貶める程の軍備とイスパニア等との関連があったとされています。 眞田10万石祭 2日目 松代城にまつわる 解説 松代城は、以前 海津城と呼ばれていました。 この当時は、攻略されにくく、見晴らしが良い山城が中心でしたが、海津城は、武田信玄が山本勘助に命じて作らせた平城となっています。 武田家は武田・北条・今川の三国同盟によって、南方の海への領土拡大は阻害されていた為、北方の海への領土拡大が現実的であり、それに沿った趣旨で建築されたとは思いますが、千曲川を利用した浮き城とした構図が観えてきます。 武田信玄と上杉謙信は、川中島で12年間に5回も覇権を争う戦いを行ってきた為、手薄になった西方の織田信長の台頭を促進することとなります。 第4次川中島合戦では、武田勢が居る海津城を見下ろす形で上杉謙信が南方の 妻女 山に陣取り、それに呼応した武田援軍が妻女山の北西にある茶臼山に陣取り、その後海津城へ入城します。 地理的には善光寺から平野部に沿って南方5Km程度の位置にあります。 入城するに際し、妻女山の上杉軍の前を横切る形となりますが、上杉謙信はこの機を逃します。 その後半月程度膠着状態が続き、有名な山本勘助の啄木鳥戦法を武田側が仕掛けます。 別働隊を妻女山の後方へ回りこませて上杉勢を追いたて千曲川支流沿いに展開した武田本隊で殲滅させる戦法です。 しかし、上杉謙信は海津城から立ち上る煙が普段より多いことに気付き、先を読み妻女山を降りて武田軍が展開している千曲川支流に向けて軍を移動します。 旧暦では9月10日ですが新暦では10月下旬にあたり、この地域では霧が多く発生する時期でしたので、武田側に知られること無く前面に展開できたのでした。(両軍共この日は霧だという事は知っていた為、両軍が其々の思惑で動いたのです) 結果は両軍とも多くの死傷者を出して引き分けとはなりますが、武田側は山本勘助以下多くの優秀な武将を失いましたが、支配地域を延ばすことに成功します。 真田家についての記述は、元寇襲来時にもあります。 鎌倉北条氏一族であった信濃国塩田荘守護塩田義政の御家人であった海野小太郎幸継は、塩田氏に従い佐賀あたりに布陣して生活し、弘安の役で戦うことになりますが、この頃から六連銭(六文銭)の旗をあげていたようです。 一族ではそのまま現地に土着する者も多く居ましたが、海野小太郎幸継はその後、信濃に戻り、海野幸春―海野幸重―幸秀と続き、海野幸秀が真田郷で真田を名乗るようになります。 真田幸隆の三男として真田昌幸が生まれ、永禄4年(1561)第4次川中島合戦に武田氏側初陣として参加します。 天正3年(1575)長篠の戦いにて、上の兄皆が戦死した為、家長となります。 その後、天正10年(1582)武田家滅亡後、織田信長に本領安堵の上、仕えますが、本能寺の変により織田信長が死亡し、甲斐・信濃地区が空白と成るや否や、直ぐに北条氏に仕えますが、徳川へと鞍替えします。 北条・上杉・徳川に囲まれた境に国を持つ真田の運命が掛かっていたのが良く理解できます。 その後、北条と徳川は甲州領地での和睦をしますが、真田の寝返りに北条は沼田城西部の吾妻郡に侵入をかけ始めます。 これに対抗するために真田昌幸は家康に交渉し、上田城の建設を援助して貰います。 天正13年(1585)上田城が完成する頃、北条は和睦の条件として沼田地区は北条の領地とする筈だと徳川側に抗議してきます。 それを受けて徳川家康は、真田へ沼田を北条へ渡すように勧告してきますが、沼田は家康から貰い受けた所領では無いのでおかしいと断ります。 返事をする前には、既に上杉景勝と話はついており、幸村を人質として上杉へ送ります。 そうなると今度は徳川が、籠城に耐えうる堅固な上田城を建設するのに尽力させた挙句に、寝返ったと猛烈に怒り、討伐の為の軍隊を上田城攻撃に出す計画を練りますが、6月に胃癌と思われる病状が悪化し、自身が出陣することが困難となります。 天正13年8月、総指揮を鳥居元忠、支援を大久保忠世、平岩親吉を中心に保科正直、屋代秀正、諏訪頼忠、小笠原信嶺等の総勢7千の軍が、総勢3千5百の真田軍と対峙します。 真田昌幸は、上田城東5Km付近にある神川上流地点にある伊勢崎城に矢沢頼康率いる800の軍勢、その後方北西2Kmにある砥石城に信幸率いる700の軍勢を配置し、自らは幸村と共に上田城に2千の軍隊で籠ります。これが第1次上田合戦と呼ばれるものです。 数で勝る徳川勢からは、使者による降伏勧告がなされ、昌幸は降伏するので3日程の猶予が欲しいと依頼します。 昌幸は 観天 望気 という雲の動きを観て天気予報を行うプロだったので、事前に千曲川の支流である神川上流を堰き止め、水攻めの用意をしていたので、後は大雨が降る時期に戦闘を開始するのを待つだけになっていたのです。 3日後、思うような天気にならないので、徳川側へ使者を送り、降伏の為に万全の用意をしているので、後3日ほど準備が入用と伝え、待つこと2日目に天候が崩れたので、徳川陣近くへ騎馬武者を進出させ、降伏を反故にすることを傍若無人な態度で通告します。 思惑通り、頭にきた徳川勢は攻撃を仕掛けてきたので、真田昌幸は敵を城内奥深く誘い込み、空堀・狭窄柵・丸太等を駆使して、隠れていた兵士により弓矢・鉄砲で攻め立てます。 狭い城郭内の通路で死体の山を築いた徳川軍は総崩れとなり、千曲が阿沿いに敗走しますが、これを砥石城から進撃した信幸が側面より攻撃し、千曲川沿いの川原に火を放ち、逃走経路を神川と合流する地点へ一直線上に誘導し、混乱しながら神川との合流点に徳川勢が到着する頃に、今度は伊勢崎城の矢沢頼康の部隊は神川の堰き止めを外します。 思惑通り、徳川側は千名以上の溺死者を出してしまいます。 大打撃を受けた徳川勢は、上田城南方にある丸子城を攻略し、持久戦に持ち込みます。 しかし、2ヶ月後の11月中旬に運命のサイコロが転がります。 徳川重臣の石川数正が秀吉へ鞍替えをした為、徳川に動揺が走ります。 徳川の戦略・戦術等に精通しており、様々な機密事項を知り尽くしていた人物だったので、家康は直ぐに派遣軍を撤収させて、内政の建て直しに専念するのです。 その為、これまでの戦術等はすべて捨て去り、武田の戦法を全面的に取り入れることを行います。 この事で、一気に真田の名声が日本全国へと広がるのです。 その後、真田昌幸の弟の 真田 信尹 は徳川家康に使え、長男の真田信幸は徳川家康重臣の本多忠勝の娘を家康養女として娶っていおり、次男の真田幸村は大谷吉継の娘を秀吉に仲人と成って貰い、娶っており、短期間で政略結婚の仕上げを行います。 時は流れ、慶長5年(1600)6月徳川家康は会津征伐に出かけます。 昌幸は討伐に加わっていましたが、石田三成の旗揚げを知り、直ぐに真田一族を集めて相談します。 その結果、信幸・信尹は徳川側、昌幸・幸村が西軍側に付くことと成り、昌幸は幸村と上田城に立て籠もる準備を始めます。 昌幸は徳川側と西軍側が戦う場合、元秀吉配下の武将が多く居ることを考えると5分5分と観ており、真田が西軍側に付くことを考えれば、徳川本体とは別の別働隊で、上田経路で西方へ行くことを予想していたと考えられ、本決戦での兵力を割かせる効果が有り、勝算有りと観ていたので立て籠もったと思います。 徳川家康も5分5分と観ていた節が有り、その為何時でも逃げられる桃配山に陣を張っていました。 戦後処理としては石田三成に真田信幸・信尹の助命をするには自信があったのだと考えられます。 ただ、関ヶ原の戦いで小早川が裏切り、毛利が布陣したにもかかわらず動かず1日で終了するとは思っていなかったのです。 昌幸の予想通り、慶長5年(1600)9月、徳川家康は息子の秀忠に上田城の攻略をした後、決戦場へ向かう指示をします。 実戦経験の無い秀忠を補佐する本多正信・榊原康政を中心に大久保忠隣・酒井家次・真田信之(真田信幸)の総勢3万5千の兵力で真田3千を攻撃します。これが第2次上田合戦です。 上田城の南東に位置する小諸城(仙石秀久の居城)に入場した徳川秀忠は、上田城へ本多忠政・真田信之を使者として送り、降伏勧告をします。 返事は前回と同様イエスです。 数日経っても返事が無いので、秀忠は仙石秀久を使者として送りますが、このときは西軍側に付くとの返事を貰います。 実戦慣れしていない秀忠は更に使者を送り、降伏を促しますが、返事はNOなので、ようやく戦闘モードに入ります。 昌幸は川中島に有る森忠政の砦を占領し、その動きに逆上した徳川秀忠を小諸城から引き出します。 秀忠は上田城近くの染谷台に移り、其処から上田城周辺の支城に分散攻撃を掛けますが、逆茂木落とし穴や狭窄道においての丸太・石・熱湯を用いた後鉄砲の乱射によるゲリラ戦法で、死体の山を築きます。 しかし、砥石城攻略の先鋒 真田信幸には戦わずして城を明け渡し、武功を上げられるよう配慮までする余裕でした。 本多正信は関ヶ原が、気が気ではなく、秀忠に上田攻めは中止して関ヶ原に急ぐ事を進言しますが、熱くなっている秀忠には届きません。 次に、徳川軍は城周辺の食料である稲を刈る刈田作戦に出ます。 慌てふためいた様子を装った真田父子自身が騎馬軍団を率いて出てくるのを観た秀忠は、真田親子を殺せと全部隊に号令をかけます。 まんまと罠に嵌った徳川軍は上田城へなだれ込みます。 戦い前に充分気を苛立たせ、ブビートラップだらけの城郭へと誘い込み、退却する側面を突き、最後の仕上げは神川の堰き止めによる水攻めと判を押したようなメニューを頂き、その挙句に7日間も上田に釘付けとなり、関ヶ原の合戦には間に合わず、家康から大目玉を食らうことになるのです。 しかし、西軍の敗北により、開城を余儀なくされ、家康・秀忠は昌幸を死罪にしようとしますが、本多忠勝・真田信之の助命嘆願により、高野山領の九度山へ16名の家臣と共に流罪となります。 しかし、完全に監禁の身では無く、昌幸は2人も妾を取っているし、幸村も妻との間に5人の子供をもうけており、幸之・紀伊藩浅野家九度山の庄屋等から仕送りを受けていましたから非常に困窮していた訳では無く、往来もかなり自由だったようですが、大所帯なので何かと物入りだったようです。 流罪にしては寛大すぎる措置なので、恐らく将来豊臣と戦うことになるきっかけとして、ある程度自由にさせていたのではなかろうかと思っています。 慶長16年(1611)に昌幸は亡くなり、このまま幸村も枯れ果てるかと思っていた慶長19年(1614) 豊臣秀頼の家臣 大野 治長 から家康と戦わないかとの誘いがあります。 幸村はかつて人質として豊臣秀吉の下に居た時もあり、豊臣秀吉の家臣 大谷吉継の娘も嫁に貰っており、豊臣家とは深い関係にあったベースの上に、傀儡ではない真田の再興を考えていたようで、承諾します。 大阪冬の陣が始まります。 有名な真田丸で前田・井伊・松平の軍勢に死体の山を築かせますが、徳川は大筒の射撃で、御殿を破壊し淀殿を和議へと引き出すことに成功します。 大阪城は、外堀から内堀まで埋められ、丸裸となります。 元和元年20年(1615)大阪夏の陣が始まります。 これも皆様がご存知のように、毛利隊の先走りから陣形は崩れ、幸村はこれまでと徳川本陣目指し遮二無二突き進みますが、途中で息切れし休んでいるところを松平忠直・前田隊の鉄砲隊に撃たれてしまいます。 元和8年(1622)真田信之は上田6万5千石を召し上げられ、松代10万石へ移封されて、沼田と合せて13万石となりますが、当時の松代は千曲川の洪水が多く、経済的には良い土地柄とはいえませんでした。 その為、真田信之は、真田の執念の象徴とも言える上田城に対する執着は強かった為、上田城の石垣の大石を運ぼうとしましたが、動かなく諦めたそう等の逸話がありますが、松平忠輝・本多忠勝・松平忠昌等徳川の重臣達が歴代治めていた土地なので、単なる左遷とは違うと感じます。 真田信之の移封時には20万両あったそうですが、河川整備・城下町整備・新田開発を行った結果、明治維新時には幕府から10万両程度の借財をしていたので、徳川秀忠の思惑通りとなったのかもしれません。 真田幸村の嫡男 大助は大阪夏の陣で幸村と共に戦死しますが、他の嫡男・娘達は真田幸村を尊敬していた片倉重綱、旧豊臣家臣等を頼り、生き延び、現在 真田幸村系の第14代当主の真田徹氏は、環境安全関連の講師として、上田真田祭・九度山真田祭に参加されており、信州上田観光大使でもあられます。 真田信幸系の第14代当主の真田幸俊氏は、学習院中等科・高等科を卒業後、慶応大学工学部へ進まれ、現在は慶応大学電子工学の教授をしておられ、毎年松代町真田10万石祭に当代当主が白馬に跨り行軍の指揮を執られています。 第2次川中島合戦では、善光寺に陣を張った上杉謙信は、善光寺を武田勢力圏に置くことを嫌い、仏具等を持ち出し、越後府中善光寺を建立し、第3次川中島合戦後、武田信玄は上杉謙信に対抗して甲斐善光寺を建立しています。 このように信州善光寺が基となっていますが、そもそも善光寺は仏教伝来の象徴とされる阿弥陀如来像を本尊とする、特定の宗派に属しない仏教そのものの寺として現在に至っています。 一向一揆が発生しているこの時期に、この仏教伝来の楚とも言える善光寺に対する思いは武家・民衆共に非常に高く、なんとしてでも支配下に置きたかったのだと思われます。 善光寺に関しての詳しい記事は、インターネットで「桜友の杜」を検索していただき、その中の「富山桜友会」-「長野桜友会訪問記」にも記載されていますが、寺紋の「立ち葵右離れ紋」がまたもやキーワードとなります。 前日の真田宝物館等で見受けられましたように、真田昌幸の戦術采配に感服した前田家筆頭家老の本多忠勝が娘を真田昌幸の長男の真田信之へ嫁がせています。 本多家の家紋も全く同じ「立ち葵右離れ紋」ですが、徳川家康は葵紋の使用を厳しく制限していましたので、その使用を新たに認める筈が無く、寺の建立時期からあったと見受けられます。 蘇我氏と物部氏との仏教輸入を巡る争いの果てに、物部守屋は蘇我入鹿に殺されますが、此処信州はその頃の政治の中心であった河内から遠く、多分 物部氏と深い間柄の地域だったと想像されるので、菩提寺的な物と理解しています。 ここで連想を働かせますと、仏教伝来時 阿弥陀如来像と共に百済国の最後の王子が渡ってきた事が記されていますので、「立ち葵右離れ紋」は百済王家が使用していた紋の一部ではなかっただろうかと思い、更には大陸的に観ますと、植民地的な日本国への移民を主に行っていたのは百済で、それこそが日本そのものでなかったかとも推察されてきます。 このように史実や史跡を当時の政治勢力関連や世界状況を交えて連想を行いますと様々な自分の大河ドラマが生まれ、単に物や風景を観、美味しい物を食しただけに留まらない、知的遊戯を楽しむ事ができ、明日への希望・活力となると信じています。
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