「長野桜友会総会参加」のお知らせ

 


平成28618日、長野県で行われた長野桜友会総会に参加してまいりました。
北陸新幹線で約1時間の範囲ですが、いろいろと回りたくて、世話役の朴沢女史と自動車で行きました。約2時間半程度の行程でしたので、新潟へ行くよりは30分程度短い感じです。
高速道路の長野ICを降りますと、富山とは違うハイカラな爽やかささえ感じる空気が新鮮でした。
新幹線駅の南側は武家屋敷風の概観に真田家紋入りの提灯が飾られて、観光に即した駅構えとなっていました。北側は黄色のタイル貼りとなっており、ビジネス街の感じとなっています。

 

 

 

駅南側から見た長野駅です。

長野らしい感じの駅構えになっていますね。

 

 

 

軒下から撮影した長野駅です。

武家屋敷風の眞田家の本拠地という感じがストレートに伝わってきます。

駅南側左手に有るスペースに何やら女神様みたいな像が?
天竺毘舎利国で、お釈迦様の教えに無関心な大富豪の月蓋の娘 如是姫がいましたが、病気となりそれを治す為に月蓋は信者となり、金の阿弥陀如来像他 二菩薩(一光三尊)を作り、布教に務めました。

月蓋は、その功徳により百済の聖明王に生れ代わり、この一光三尊仏を日本国最初の仏像として奉献しますが、物部氏に難波堀江へ捨てられますが、聖明王の生れ代わりの本田善光が拾い上げ、そのお告げにより、信濃の国へとやってきたと伝えられており、その引き金となった如是姫の像でした。

善光寺の有る信濃の国は、古代日本国の根源に関わる多くの謎が潜んでいると改めて感じました。

昨日は長野桜友会の総会に出席しましたが、懇談に夢中になりすぎて酔っ払い、写真を撮るのも忘れてしまいました。

2次会は駅北側のビルの何とかという飲み屋でしたが、其処へ行くのに小一時間程掛かり難儀しました。

先に行った世話役は私がなかなか現れないので、長野桜友会のメンバーに、会長(私です)と一緒にいた人は誰かと聞いたようですが、誰も知らないとの返事で大変心配したようです。

私はそれ所ではなく、5m行ったかと思うと立ち止まり、歓声をあげられる埼玉の寅さんと一緒で、しっかりと手を握りあいながら、親睦を図っていたのです。

それでも何とか2次会会場に到着し、更に懇談することができました。

何と 先程の寅さんは、昭和寮の四方山話や日本郵船に行かれた前田の殿様の事も知っている様なので、亡くなられる前にしっかりと聞き出しておかねばならないと思いました。

 

 

宿の近くには謎の多い善光寺がありましたので、是非行かなければと、世話役と一緒に行って来ました。

善光寺へ行く通りも、観光地風にしっかりと整備されており、長野の観光地という印象を与える工夫が随所に観られました。

 

右側に写っているのが世話役の朴沢女史です。

 

私と違い、写真写りが良いですね。

もちろんアップロードの許可は取ってあります。

初めて善光寺へ行ったのですが、行って見て、驚きました。

其処彼処に寺紋の立葵右離れ紋(前田藩筆頭家老の本多家の紋でもあります)が付いているではないですか。

眞田信之に嫁いだ小松姫(本多忠勝の娘)の関係か?、いやそれだけでは徳川が葵紋を許す筈が無い。

やはり古代日本国の根源的なものと葵紋は同期していると考えるのが順当と思い、本田善光、本多(田)家の関連を考えると身震いさえいたしました。。

宮元健次氏が「善光寺の謎」という本を書いておられ、その内容によると、善光寺は聖徳太子と蘇我氏に滅ぼされた物部守屋の鎮魂寺ということになっています。

この寺の阿弥陀如来は百済から渡来しており、それを運んだのが本田善光となっていますが、物部守屋を殺めたのは、秦河勝で、彼が実際に阿弥陀仏を運んだのではないかとの事です。

また、秦河勝は九州の宇佐八幡宮(全国八幡宮総本山)を建設しており、祭っている神様は誉田別(ほむだわけ:応神天皇)です。

また、百済滅亡時の義慈王の子は、善光と言われており日本へ来たと言われています。

上記からの事を併せて考えますと、どうもこの人が本田善光ではないかと想像させられますので、葵紋もその時に一緒にと考えさせられます。

 

 

眞田家関係の施設が広い公園内に一同に配されているので、観光者にとって非常に便利です。

富山も少しは見習えば良いと感じます。

まづは、眞田家の屋敷へ入ります。

 


内部は、がっしりとした太い木組みの柱で構成されており、お庭が見事でした。

ガイドさんの説明では、本来は庭から背後の狼煙山が見えるように樹木が整備されていたようですが、現代においては、伐採許可申請が困難で迂闊に切れずに伸び放題となっていて、山が見えなくなっていますとの事で、確かに見えませんでした。

立派なお庭が観える一室では、お琴の練習をされており、しばらく見学していました。とても優雅でした。

 

 

 

次に同じ敷地内に有る、眞田宝物堂に入ります。

立派な建物です。

ちょうどNHKの眞田丸が放映されている事もあり、その特集展示、その他眞田に関連する展示品で溢れ返っていました。
 

同じ敷地内に眞田家に仕えた樋口家の邸宅跡が有り、展示されています。

末裔の方は裏の家屋で実際に住んでおられ、眼が合ったので、お礼を言いました。

この兜は、刀返しが大きく反り返っており、甲冑も漆塗りの鉄板を細かく編上げた重装甲の物なので、鎌倉時代の作と思います。


樋口家というと、私が木曽義仲の寄稿文中でも紹介していますが、木曽義仲の乳母の家系で、四天王の一人の樋口兼光を祖としています。

一方、眞田氏の祖先は海野幸広とされ、樋口兼光と同じ木曽義仲の家臣でした。

上杉に仕えた、直江兼続も直江家に養子に入る前は、樋口与六兼続であり、遠い親戚ということになります。

末裔の方にお話を聞かせて頂けば良かったと後で悔やみました。

当時も鎧兜の価格はかなり高いので、代々伝えられ、着用してきたのでしょうね。

帯紐や顎紐もしっかりと残っており、保存状態はかなり良い方と感じました。

襖の向こう側には囲炉裏と調理場が観え、清貧な生活の中にも武具は立派な物を揃え、いざ鎌倉に備えていたのが伝わってきました。

 

眞田の文武学校の建物です。

 

眞田邸よりは10年程度古い時代のものですが、室内の塗り壁を観ますと、柱や梁の間に隙間が無かったので、腕の良い宮大工が建てた物と分かりました。

塗り壁は経年経過で、かなり収縮しますので、木との間に隙間が生じます。それを防ぐ為に、木に溝を彫り、其処に壁土を塗り込むと収縮しても隙間が観えなくなります。

別の広間では、松代町の職員が広間に椅子を並べていました。

定期的にバイオリン演奏をするそうですが、此処でバイオリンアンサンブルを聴けたら最高ですよね。

 

帰りは、IC近くにJAの直売場があったので、世話役にお願いして寄りましたら、見たこともないとても大きな玉葱12〜13個入りが500円で販売されていたので、思わず購入してしまいました。
先に宿の信濃路で購入したりんごの蜂蜜(駅では小さな瓶詰で3,000円台だったので、それよりも3倍程度容量が多く価格も2,000円台)も有り、得した気持ちで帰路につきました。