「越中おわら風の盆への誘い」

 

 越中おわら風の盆は全国的に有名になり、いまや年間30万人以上が来県される大イベントとなりました。

毎年9日から日まで開催されていますが、その期間中は小さな町全体が観光客で埋め尽くされ、町流しの踊りにも支障が出る程となっており、ゆっくり観賞するには程遠い状態となっています。

そこで、富山県のPRの一環として「越中八尾おわら風の盆」を存分に体験されたい人に対して、混雑もせず派手ではありませんが、地元に密着して行われる前夜祭を観賞して富山市内で宿泊していただこうと、希望者には事務局が手配を行っています。

前夜祭は八尾の11町内(天満町、下新町、今町、鏡町、西町、東町、上新町、諏訪町、西新町、東新町の旧町10町と福島町)が日替わりで踊る催しです。

我々は以前、前夜祭ツアー企画で、参加者には富山市内のホテルに宿泊頂き、八尾の千里山荘で地場物の会席料理を楽しんで頂いた後、曳山会館で踊りのビデオ観賞及び指導後、町民と一緒に輪踊りを行うツアーを行いました。

また最近では八尾町内にある老舗旅館「北吉」でお座敷でのおわら風の盆踊りを会席料理を食しながら観賞する行事を行っています。


越中おわら風の盆の虜になるのはなぜでしょうか。

それは他の民謡には無い独特の完成された気品高い要素があるからだと思っています。

しかしながら、地元の人々でもこの踊りのルーツを良く知らないので、それがどういう理由で発生し発展してきたかについて説明を行い、一般にはあまり知られていない町内毎に踊る風の盆の前夜祭への誘いをすることにいたします。

 

何故 風の盆と呼び月に行うのでしょうか。

元々「盆」は、旧暦7月15日(盂蘭盆会)のみを指すのでは無く、何らかの筋目の日を表現するものだったようです。

日は旧暦の八月朔日(ついたち)に由来するそうで、この時期は台風が日本に襲来する頃なので、農家では旧暦八月朔日の時期は八朔(はっさく)とか二百十日(にひゃくとうか)と呼び、その日は風雨による厄日となっており、この風雨を鎮め祈る踊りとされ、風の盆と呼ばれていたのです。

また、越中八尾は江戸時代から明治時代にかけて飛騨への交易や売薬・売薬用の紙・養蚕生糸出荷の街道拠点として、富山藩の御納戸と呼ばれるほど経済豊かな町でした。

蚕は病気に弱い昆虫で、風通しの良い部屋で養蚕を行わないとカビ病にかかりやすく、また、餌の桑は害虫が来ない程度の風が吹いている地域でないと育たない傾向にあり、八尾はその最適地であったのです。

(現在も山間部には桑が群生しています。)

また、養蚕は月〜月頃に繭を作る春繭が最も品質が良いとされ、夏繭、秋繭と生産されますが、お盆は繭を採り次の収穫用蚕の桑葉を敷く繁忙期と重なるため、お盆の時期をずらして、日から行う経済上の理由もあると考えられています。

八尾に隣接する長野県岡谷は、日本有数の製糸工場の町だったので、八尾からもたくさんの女工たちが働きに行き、きびしい労働に従事し、月頃には休暇で帰省していたようです。

女工達は、岡谷までの道中の宿で、いろりの周りでおわら節を踊り楽しんだと言われ、岡谷の盆踊りではしばらく前まで、おわら節が踊られていたそうです。

また、盆踊りは成仏した先祖の霊が戻るという意味合いが有るので、浄土真宗の影響が強い富山県では、雑行雑修を厳しく律せられている関係上、わざとお盆から日をずらして芸能のみの行事にしたという説も有ります。  

次にいつからどのように変化して現在のような形態になったかを観てみましょう。

寛永13年(1636)に加賀藩三代藩主の前田利常より開祖の米屋少兵衛は町建御墨付文書を拝領し、八尾町が開町しました。

米屋少兵衛は、富山藩へ商人が納める御収納銀を手持ちが無い場合に、立替えて金利を徴収する金融業を行っていました。

しかし貸し倒れが徐々に多くなり、代目の時期には御収納銀請負業が困難となり、町建御墨付文書と共に野積の水口村へ移転してしまいました。

その後、八尾町役人から水口村の米屋少兵衛へ何度も町建御墨付文書の返還を求めていましたが、貸し金の返却が無い限り返さないとの立場を崩しませんでした。

膠着状態の打開を図り、元禄15年(1702月に、八尾町町役人は花見と称し酒肴と芸人を連れて、水口村の米屋少兵衛家を訪ね、座敷を借りて大宴会を開き、気を逸らせている間に町民に土蔵から町建御墨付文書を探し出させ、ひそかに持ち帰ったと言われています。

この町建御墨付文書を取り戻したことを祝って、月16日の例祭日を中日として、三日三晩 歌舞音曲はもとより、どのような賑わい事も咎めないので面白おかしく町内を練りまわれというお触れが出され、三味線・太鼓・尺八等の楽器演奏を行い、浄瑠璃・仮装行列を老若男女が昼夜の別無く町内を練り回ったと、おわら関連の最古の文献である越中婦中郡志に記載されています。

これ以前の盂蘭盆の日間は川崎踊りを踊っていたようですが、おもしろおかしく踊りながら町内を練りまわる形態に変化していき、後に文学者等により品格を高める操作が様々に入り、現在のおわら節が使われるようになるのです。


明治39年(1906)には、富山県婦負郡の役所が口承文芸の調査で、公文書に「おわら」「風の盆」の記述をしています。

明治44年(1911)に、松永由太郎、江尻せきにより現在の旧踊りの原型が考案され、松本堪玄(輪島出身の漆職人と言われています)が胡弓をおわらに取り入れました。

松本堪玄は大阪で浄瑠璃の修行をしながら、長唄・小唄・三味線等あらゆる分野をマスターし、旅芸人の一座に加わり全国を回っていましたが、八尾で結婚して居住しました。

そのような中、越後瞽女(ごぜ:盲目の女旅芸人)の佐藤千代が奏でていた胡弓と出会います。

(八尾はこのような芸人や芸者が集まる町でした)

おわらの唄や三味線に、胡弓を合わせられないだろうかと研究を重ね、今日のような伴奏形態となったのです。

全国に知られるようになったのは、大正年(1913)に、北陸線が直江津まで開通したことを契機に、富山県は記念事業として、東京都を含む県の連合共進会を設け、日から50日間のイベントの目玉としておわらや麦屋節が踊られ知れ渡るようになりました。

これに合わせて、江尻せきを中心に芸者グループが歌詞や伴奏を練り直し、深川踊りから宙返りを、カッポレから、稲刈りの振り付けを取り入れ、これまでの難しい芸者踊りから単純で美しい「豊年踊り」が仕上がりました。

更に、明治時代後半からのレコードの普及により、オリエントレコードから江尻豊治が中心となる「小原節越中八尾 岩本小吉忠連中」による「越中おわら節」が発売され、全国的に知られる要因となりました。

江尻豊治(1890〜1958)は、浄瑠璃を本格的に修行し美声を備えた人で、浄瑠璃仕込みの豊かな感情表現を持った「江尻調」と言われる上の句と下の句を一息で歌い切る唱法の節回しを完成させました。

大正年(1920)には町長の橋爪秀太郎や助役の渡辺常太郎を中心に「おわら節研究会」が設立され、長野県や群馬県の製糸工場へ出稼ぎに行っている女工達の帰省時期である毎年2月におわら大会が八つ尾の鏡町の明治座で催されるようになりました。

 

ここで、おわらの唄・伴奏・踊りについて説明したいと思います。

おわら歌詞は基本的に他の地方民謡と同様に七、七、七、五の26文字構成となっており、最後の文字前におわらが入ります。

この26文字歌は「正調おわら(ひらうた)」と呼ばれ、この歌の初めに文字を加えて31文字で唄われる「五文字冠り」等があり、唄い手の力量が試されます。

おわらはこの「唄い手」以外に「囃子」「三味線」「太鼓」「胡弓」から構成されており、最初に三味線が探り弾き演奏(弦を押し付けながら撫でるように演奏します)を初めに胡弓演奏(あまり目立たぬよう控えめに演奏されるので、哀愁を帯びています)がこれに続き、次に太鼓(能等に用いられる締太鼓です)が控えめに叩かれて囃子が唄い手の唄を誘います。

唄は独特の高音域での息継ぎ無しでの小節を唄いあげ、楽器がこれを支えます。

唄が終了すると、合いの手と呼ばれる楽器だけの曲が奏でられますが、唄の旋律とは異なったものなので、他の民謡には見られない独特の雰囲気が醸し出されます。

 

次におわらの踊りは「豊年踊り(旧踊り)」と「新踊り」の2種類があります。

豊年踊りは、富山市が観光客向けに行っているおわら講習会や富山県内の学校運動会等でも良く踊られていた老若男女を問わず、誰にでも楽しむことのできる踊りです。

これに対して新踊りは、昭和初期の日本舞踏家 若柳吉三郎等によって振付けられた舞台演出用の踊りとなっています。

新踊りは、「男踊り」と「女踊り(四季踊り)」に分けられており、男踊りは振りが大きく豪快に踊り、女踊りは艶っぽく上品に踊るのが良いとされています。

当初は女踊りにのみ四季の所作がありましたが、次第に男女混合で踊るときに妖艶な所作が入るように進化していき、それが各町内毎に伝承された為、少しづつ違っており、おわら踊りの楽しみともなっています。

各町内毎に、衣装デザインや色彩は異なりますが、男女共に編笠を深く被るのは共通しており、これは当初 手ぬぐいで顔を隠して踊っていた名残と言われています。

男性の踊り手は股引きに半纏姿(絹の羽二重)、女性の踊り手は胴回りや袖におわら節の歌詞が染めてある浴衣姿(東町・鏡町には歌詞が染めてありません)の高価な衣装を纏い、草履を履いて踊ります。

女性の衣装で特徴的なのは元々芸者が踊っていたので、黒帯がお太鼓結びとなっており、それに赤い帯〆をします。

(諏訪町と東新町以外)その姿がきりりとした雰囲気を醸し出しています。

黒帯は冠婚葬祭用として大概 各所帯に用意されており、町内行事として参加し易かった向きがあります。(東町のみ金銀の市松模様の帯を使用します)

さて、大正から昭和初期にかけてのおわら最大の変革の時期の歴史に戻ります。

私財を投げ打ちおわらの保存育成に尽力した東町の医師であり会長の川崎順二の働きかけで、各界の一流の文化人たちが次々と八尾に来訪し、おわらに文芸の息吹を吹き込みます。

呼ばれた文芸人には、詩人・民謡作詞家の野口雨情、佐藤惣之助、画家の水田竹圃、俳人・小説家の高浜虚子、小説家・劇作家の長谷川伸、洋画家の小杉放庵、日本画の小川千甕、俳人板画家の林秋路が居り、彼らの想いは歌碑となって八尾町内のあちらこちらで観られますので、それらを散策がてら探すのも楽しみです。 

昭和4年(1929)には、東京三越で富山県の物産展示即売会でのアトラクションの呼びかけがあったのを契機に、川崎順二を中心に「おわら」の修正がなされました。

踊りは、台東区柳橋出身の舞踊家初代若柳吉三郎(男踊りと女踊りはこのとき考案されました)、唄は常磐津の林中、四季の歌詞は画家で俳人の小杉放庵が担当しました。

こうして、5月に「四季の踊り」が仕上がり、東京三越で芸者が披露したところ、農作業や蛍取りの様子を日本舞踊の所作に合わせて表現した振り付けや、お座敷での艶めきのある舞を思わせるものであり、大人気だったとのことです。

その後月に、越中八尾民謡おわら保存会(現在の富山県民謡おわら保存会)が設立され、会長には、川崎順二が就任しました。

当時のおわらは、芸者衆が踊るものであり、町の娘は決して踊りませんでした。

女踊りは鏡町の芸者が踊り、男踊りは甚六会(商売家の跡取り息子達が作った青年グループで芸の道に通じていました)が踊りを担当していました。

当時は娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもっての他だったのです。そのような中、医者で名門の川崎順二は、5人の娘を率先して踊りに出し、「あの川崎先生の娘さんが踊っているのなら」ということもあり、一般の人も次第に踊るようになり民謡として定着します。

常磐ハワイアンセンターのダンサー達と同じような境遇だったのです。

昭和57年(1982)には、町内毎におわらを伝承しているので、日交代で踊りを披露しようということで、風の盆の前夜祭(毎年20日から30日)が始まったのです。

駆け足でご説明いたしましたが、まだまだ説明しつくせない箇所も多くありますが、後はご自身で体感していただければと思います。