「加賀の懐想」

 

 

先日金沢へ行ってきました。

金沢行きJR各駅停車の列車は、途中 倶利伽羅駅で停車しますので、少しの間でしたが駅ホームへ出て、潜り抜けたトンネル出口方向の倶利伽羅峠を仰ぎ観み、今時こんな僻地には人が来ないだろうなと思いつつ、木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いを妄想していました。

義仲は余程良い男だったらしく、戦場にまで鎧兜を着用して同行する巴御前・葵御前・山吹御前の才色兼備の側室3人組が居り、羨ましい限りです。

残念な事に、この内の葵御前は倶利伽羅峠の戦で討死し、彼女の塚が山頂に建っています。

治承年(1180)に、以仁王の平家追討の令に応じて、挙兵した木曽義仲を打ち破る為、平維盛を総大将とする10万の軍勢が旧北陸道に沿って、越中(富山)へと進軍します。

平盛俊指揮する先兵隊は、倶利伽羅峠を越え砺波市東部の般若野に布陣しますが、木曽義仲の重臣 今井兼平に奇襲され、石川県西部平野まで退却します。

平家軍は体勢を立て直し、志雄山(現在の石川県羽咋郡南部の宝達山:天正12年(1584)に砂金が多量に採れているので宝達山と呼称されています)に平通盛・平知度率いる万の軍勢を配し、平維盛・平行盛・平忠度率いる万の軍勢を県境にあるJR北陸線トンネル付近の砺波山に布陣させます。

これに対して、木曽義仲本隊は平家本陣が陣取る砺波山の東に位置する矢立山・南東に位置する源氏ヶ峰に万の兵を展開していました。

木曽義仲は本隊が志雄山へ向かうと思わせる為、別動隊万に旗を多数持たせ志雄山へと向かわせ、平家軍本隊を油断させます。

その間に、密かに砺波山の北部にも兵を移動させ、平家軍を東・北から抑える格好の布陣を敷きます。

更に義仲の重臣の樋口兼光軍を密かに砺波山西口に向かわせ、平家軍の退路を断つ戦術を採り、これにより平家軍は北・東・西を囲まれる格好となり、逃げ道としては南に在る地獄谷(立山の地獄谷とは違います。平家軍の死体が積み上がったのでそう呼ばれるようになりました)が口を開ける倶利伽羅峠の険しい谷沿いの道しか残らないことになります。

この敵の背後等に、別動隊を送り込んで挟み撃ちにする兵法の成功例として、毛利元就千の軍勢が、陶晴賢の万の軍勢を破り、勝利した厳島の戦いが連想されます。

これも奇襲作戦で、狭い厳島に毛利氏が海沿いに城を建てて陶氏をおびき寄せ、北方の海から城への増援部隊を送り、南から攻める陶軍の眼を欺き、その間に東方より本隊を上陸させ、敵の背後から攻め、更に退路を断つ為に村上水軍に西方の厳島神社付近の船着場を攻撃させて陶軍を全滅させます。

少ない兵力で大兵力を相手にする場合、挟み撃ちとタイミングを合わせた奇襲は絶大な力を発揮しますが、相手側の軍師が優れている場合は状況が違ってきますので注意が必要です。

次川中島の戦いでは、武田信玄が海津城を構築して上杉謙信を誘き寄せますが、謙信は海津城を見下ろす妻女山に千の陣を張ります。

これに対して武田信玄は万の軍勢を引き連れ向かい側の山に布陣しますが、上杉軍が動かないので、海津城へ入城します。

武田信玄の軍師山本勘助は、啄木鳥戦法と呼ばれるこれも敵の背後に別動隊を送り込み、挟み撃ちにしようという作戦を立てましたが、軍神との呼称が高い上杉謙信はこれを見破り夜の間に山を下り、翌日挟み撃ちにする為に海津城から出た武田信玄本隊の駐屯している平野の目前に現れ、武田軍は本隊全滅を覚悟するのです。

結局 武田の別動隊が向かった妻女山との距離が近かった為、武田本隊が少なかったにも関わらず短期決戦の勝負がつかない間に武田の別動隊が駆けつけたので、形勢不利と観た上杉軍は引揚げます。

このように挟み撃ち兵法は相手側軍師の力量次第では壊滅的な被害を蒙る恐れがあります。

平家軍が志雄山へ向かったと思われる木曽義仲を翌日挟み撃ちにしようと寝静まった夜半、木曽義仲軍は大挙として攻撃を仕掛けたのでした。

この時、「火牛の計」と呼ばれる数百頭の牛の角に松明を付けて平家軍を追い落としたと「源平盛衰記」にありますが、動物は目の前の火を恐れますので、多分 角に槍や刀を括り付けた牛の集団に、後ろから松明の火で脅かし追いやったものと考えます。

この頃は軍事物資運搬には牛や馬を多数利用しており、馬は騎馬にも使用できるので、牛を使ったのは頷けます。

ここで、平家軍の退路を断つ役割を演じた樋口兼光や騎馬武者の側室3名と木曽義仲の関係を述べたいと思います。

平家軍の退路を断った樋口兼光は今井兼平や巴御前のお兄さんで、末裔には大河ドラマで有名な樋口兼豊の長男である樋口与六(直江兼続)に繋がります。

この兄弟妹と木曽義仲は、同じ乳母に育てられた為、非常に仲が良かったようです。

巴御前を側室に迎えたのは当然の成り行きだったと思いますが、正室が誰だったかは定かではありません。多分 今井兼平の妹がもう人居て、正室となっていたのではと想像します。

木曽義仲が京都に入った後、摂関家から藤原伊子を正室に迎えますが、この頃には亡くなっていたのではないかと推測されます。

蛇足ですが、藤原伊子は後に源通親の側室に入り、道元を生みます。

騎馬武者側室人の話に移ることにします。

広く知られている巴御前は、木曽義仲敗走の粟津の地で落ち延びた後、鎌倉に召還され和田義盛に迎えられますが、彼も和田の戦いで戦死します。

その後、越中福光の石黒氏を頼り一宇寺で亡くなりますが、生前仲の良かった葵御前の近くに眠る事を希望していた為、倶利伽羅峠で戦死した葵御前の塚の近くに巴御前の塚があるのです。

山吹御前は京都に入った所で、病に伏しますが、義仲が敗走した事を知り、大津方面まで追いかけ、そこで消息が途切れています。

突然、出発を促す車掌の声が聞こえて来て我に返り、電車はガタゴトと発車して金沢に向かいました。

金沢駅に到着して思い浮かべるのは20年ほど前に西念地区に年程住んでいた頃で、当時は金融業界に勤務しており、転勤で金沢勤務をしていました。

富山県と違い、石川県の特徴は、幅広く多彩な産業が発展していることだと思います。

繊維機械ジャンルでは津田駒工業、工作機械メーカーの中村留精密工業、繊維機械ジャンルから脱却した旋盤機械ジャンルの高松機械工業、アパレル関係では企業制服のヤギ・コーポレーション、商業美術印刷ジャンルでは福島印刷・高桑美術印刷があり、流通では三谷産業梶A日本酒製造関連機械から発展したボトル関連機械製造の澁谷工業、金箔関連では株嶋黶Eカタニ産業梶Aその他伝統工芸・観光産業等 様々な産業が開花しています。

その中でも全国・世界的に広く普及させているユニークな産業を紹介したいと思います。

それは、回転寿司です。

人口当たりの店舗数では全国一であり、その設備装置を製造し、提供しているのは殆ど石川県なのです。

回転寿司を考え、製造機械を作成したのは東大阪市に居られた白石義明さんでした。

彼が長い年月を掛けて完成させ、1958年に元禄寿司として開業し、大阪万国博に出展してその名を不動のものとしました。

そして、その回転寿司のフランチャイズを考案したのは仙台市の陳金鐘氏、彼から西日本での開店許可を得て金沢の近江町市場で第1号店を開いたのが竹倉吉雄氏で、彼が世界にも回転寿司を広めた立役者となったのです。(当時は元禄鰍ナしたが、現在は元気寿司鰍ニなっており、「すしおんど」や「千両」もチェーン展開しています。)

ネタが命の寿司、回転寿司での鮮度を保つことや寄生虫の排除は至上命題でした。

食の安全管理手法として、HACCPがありますが、これをクリアする管理手法においては竹倉氏娘婿である山本利治氏の支援があり、薬品を使用せずに魚介類に寄生するアニサキス幼虫等をつピンセットで取り除いてカットする手法を編み出しています。

また、昭和46年 竹倉氏が発案した自動給茶機は、大成功を収め回転寿司の普及に大きな後押しとなりました。

これらの装置製造はバネ関連の金沢発条商会(後の石野製作所)に依頼していましたが、この金沢発条商会から竹倉氏を慕って何人かの技術者が集まり創設したのが日本クレセントでした。

販売先が低価格チェーン店中心の石野製作所は製造に専念し、北日本カコー鰍ェ販売するという体制を採っており、個性を活かす小規模チェーン店を中心に販売する日本クレセントのほぼ社体制でしたが、その後爆発的に広まった食べ放題の焼肉チェーンに押され、単独の小規模回転寿司店では低価格戦略を採れず次々に廃業、そのあおりを受けて、全盛期にはシェア30%も有る業界第位(第位はシェア60%の石野製作所)の日本クレセントは、2009年9月に景気低迷により倒産してしまいます。

しかし、牛肉の BSE 問題により、焼肉チェーン店に壊滅的な打撃が走り、メタボリック対策としての健康志向も後押しして、再び回転寿司が浮上してきており、現在では年商千億円市場となってきています。

最近はタッチパネル方式による発注システムを提供する電装品メーカーである発紘電機も大きくこの業界に関わりを深めており、様々な業種を巻き込みながら進化発展していく回転寿司に大きな声援を送りたいと思っています。

昼食を回転寿司で食べようと思い、「まいもん寿司金沢駅西店」に入りましたが、平日にも関わらず席はほぼ満席で、金沢の庶民生活に深く溶け込んでいる感じを強く受けました。

お寿司のスペシャルランチメニューにのど黒と炙りサーモンを追加注文して食しましたが、そのレベルは都会の普通のお寿司屋さんと遜色無くお腹一杯となり、非常に充実した気分になりました


さて、前田家の家督相続に纏わる話をしたいと思います。

前田利家は、前田利昌の四男として天文7年(1538)に尾張の荒子城にて出生し、13歳の時に織田信長に小姓として仕えます。

この頃の利家は、活発な若者に見られるような短気で喧嘩早い不良な性格だったようで、派手な格好を好んでおり、傾奇者とも呼ばれていたようです。

元服する前後より織田信長とは衆道の間柄であったようで、早急に生活面を是正させる為、利昌は永禄元年(1558)に利家の伯母(母の姉で篠原家に嫁ぐ)の娘まつ(篠原家の主人が亡くなり母が高畠家に再婚する時に利昌が引き取り養育していた)と結婚させます。

まつは利家よりも10歳近くも年上でしたが、学問武芸にもすこぶる秀でており、利家との仲も良く12人の子供をもうけています。

利家の死後も前田家存続の為に、進んで長期の人質生活を送る等 生涯を通じて滅私奉公をしました。

利家の結婚後の翌年永禄年(1559)に、織田信長の父 信秀の側室の子供である拾阿弥(じゅうあみ)に妻まつの実父形見の笄を盗まれたり、信長臣下に対するその横着武人な振舞に耐えかね、利家は信長の面前で拾阿弥を斬殺した為、出仕停止と成り浪人生活を送ることになります。

浪人中は鉄砲の名手としても有名な松倉城主 坪内利定の下で暮らし、ここで後に有名となる前田家鉄砲隊の鉄砲の基礎を習得します。

出仕停止中にも関わらず、永禄年(1560)桶狭間の戦い、永禄年(1561)森部の戦いに参戦して手柄をたて、ようやく織田信長から許しを得ることになります。

前田家の長男 前田利久は、滝川家(織田信長の重臣で、「本能寺の変」前に関東管領の代わりに配置した滝川一益の親族)より花嫁を迎えていましたが、子供ができませんでした。

そのような中、父前田利昌が前田利家浪人中の永禄年(1560)に亡くなり、前田利久が家督を継ぐことになります。

その為、急遽三男の前田安勝の娘を養女とし、その婿として妻の実家である滝川家より、後に豊臣秀吉が傾奇者と称して、世に知られる前田慶次郎を養子として迎えるのです。

しかし、永禄12年(1569)主君織田信長は、精彩が無く自分の子供も作れない前田利久では後々の全国制覇に支障があると判断したのか、前田利家に家督を譲るよう命令します。

この時、前田利久の妻は、荒子城の前田家4千石の財宝を抱え退城を強力に拒み居座ろうとしますが、主命により退城させられてしまいます。

これを契機に前田利久・慶次郎と前田利家との間には亀裂が入りますが、特に利久の妻は自分達が前田家筆頭との意識が非常に強かったようです。

その為、養子に迎えた慶次郎の人格形成に、これらの意識が大きく作用し、後に奇しくも義理の叔父である前田利家を更に超える「傾奇者」と呼ばれる前田慶次郎を創り上げて行ったものと思慮します。

天正年(1581)、織田信長に前田利家は能登国の領主として任命されますが、この時利家は前田利久・慶次郎父子に千石の所領を与え、慶次郎は、利家に付き添い従軍し、表面上は和解している様子でしたが、軋轢は更に深く進行し、口うるさく言われる利家や特に利家の長男利長との関係は最悪な状態となったようです。

天正18年(1590)には、我慢の限界に達し、慶次郎は1人で出奔してしまいますが、慶次郎の妻や子供は生活面で安定している利家配下での生活を選択します。

その後、慶次郎は京都で浪人をしながら積極的に文化人と接しながら過ごしていましたが、上杉景勝・直江兼続と接触する機会が有り、次第に直江兼続を魅入るようになっていきます。

慶長年(1600)前には、上杉家に仕官しており、上杉家が米沢へ移転する際にも少ない禄であるにも関わらず直江兼続についていくのです。

慶次郎は時が時ならば加賀100万石の領主にも成れたかもしれない境遇にありましたが、時代の流れに翻弄される自身を必死に支えようとしていたのかも知れません。

それ故に真の人間としての手本と仰いだ直江兼続にとことん付き添っていったのでしょう。