「本多政重と本多家」

社業の側ら複数の公職を拝命していますが、その中の1つに出身大学 学習院大学OB組織の学習院桜友会があります。

現在は富山県支部の会長と本部の北信越地区(富山・新潟・長野・石川・福井)支援社員を兼務しており、その関係上各地区の総会へ出席しています。

石川桜友会の総会に参加した時のことですが、歴史好きの私の嗜好に合った講演会がセットになっていましたので、その内容を中心に関連情報を交えながらご紹介したいと思います。

講師は、石川桜友会の副会長で、歴史好きの人はご存知の加賀藩本多家の15代宗主でもある 本多政光氏で、「加賀本多博物館」の館長を勤めておられます。

実は総会に出席する前に「加賀本多博物館」を見学しており、疑問に思った所があったので、ロビーの平椅子に様々な資料を広げてチェックしている所を、石川桜友会会長の奥様に見つかってしまいました。

本部の会長一行と石川桜友会会長が、本多政光氏の直々の説明を受けながら見学されている時期と重なり、奥様が不振な行動をしている人間が私と気付いたからで、それ以降は私もお供をして、再度見学をさせて頂きました。

先程疑問に思って調べていたこととは、前田利家を描いた掛軸が展示されていましたが、前田公の絵の部分では無く、表装の前田家家紋柄に描かれている紋が加賀梅鉢紋では無く、富山丁子梅鉢紋であったからです。

これは、梅の花芯に丁子の剣を描いたものなので、多分 富山藩が製作して、何かの折に前田本家へ寄贈された掛軸が本多家に与えられたと結論しました。

本多政光氏の講義は所有する各大名からの書簡についても語られ、貴重な資料内容についても説明があり、興味が尽きませんでした。

また、私事ではありますが、本多家臣の子孫が集まる葵園会への参加許可も頂いたので、正に至福の時を過ごせました。

 

これから 当代宗主本多政光氏のルーツである本多政重についてお話したいと思います。

 

先ずは、本多家一族の系統を辿りながら、本多政重の位置を観ることにします。

江戸時代での本多家は13大名45旗本と、徳川政権では群を抜いて多数を占めています。

先祖を遡って観れば切りが無いので、藤原氏時代から整理して観てみることにします。

 

藤原兼通と兼家が兄弟で勢力争いをしていましたが、お兄さんの方の藤原兼通から政権の主流は弟の兼家へと移っていきます。

藤原兼通から10代後の藤原光秀は、京都山城の賀茂神社の神主でしたが、豊後国(大分県)本田郷に子の藤原助秀と共に移住します。

八幡神社の総本山 宇佐八幡神社の近くに行きたがったのでしょうか。

 

子の藤原助秀は本田郷に住むことになったので、本田(文献では本多では無いものが多いですが、当時は漢字よりは読みが重視されたみたいです:以降は一般的な本多姓で進めます)姓を名乗ります。

建武3年(1336年)豊島川原で新田義貞・北畠顕家連合運と戦い敗れ、筑前に逃げてきた足利尊氏を宗像大社の宗像氏範が力を貸し、九州豪族へ支援を呼びかけた誘いに、本多助秀の子の本多助定も参加し、筑前の多々良浜で天皇方の菊池武敏・大友貞順の軍勢を蹴散らし、その後 新田義貞・楠木正成連合軍も抑え京を奪還します。

その功が認められ、本多助定には尾張国の横根郷(大府市)が与えられ、移り住みます。

 

本多助定の子の本多助政の代には、嫡子の本多定通が本多平八郎家系統(本多忠勝への系統で宗家と言われています)と、嫡子の本多定正(本多正信・正純への本多弥八郎家系統と、本多正信の弟 本多正重への本多三弥左衛門家系統、本多康重への本多彦次郎家系統の祖父にあたります)に枝分かれします。

 

その後 本多平八郎家系統では、本多定忠の代に豊川市の伊奈郷を攻め伊奈城を築きます。

松平郷での松平氏もこの頃近隣を侵略しており、本多氏も共に戦っており、この頃には松平氏・本多氏の良い関係が既にできあがっていたと推測されます。

本多定忠の子 本多定助の代で、分家筋の本多彦八郎家系統と本多重次への本多作左家系統ができます。

 

他方、本多定正の子の本多定吉の代には本多正信・正純へと続く、本多正明と本多康重へと続く本多正経とに分かれます。

御家存続が最重要課題であった為か、養子で凌ぐ比率が高いですが、本多作左家系統と本多弥八郎家系統では養子の入っている率が低く、男子の嫡子相続比率が高くなっています。

「加賀本多博物館」の本多政光氏は本多弥八郎家系統の血を受け継ぐ、加賀本多家の系統となります。

 

 

<本多忠勝>

戦国時代 徳川家の四天王と言われた一人が本多忠勝で、本多家宗家でもありますので、その人なりを観てみることにします。

彼が生まれた翌年、太原雪斎の指導の下 今川義元が、織田家に拉致された徳川家康を救出する為、安城攻めで織田信広を生け捕りにしますが、今川義元の家来であった安祥松平家に仕える父 本多忠高は戦死します。

徳川家康の馬印は、元々 本多忠勝の父 本多忠高が用いていましたが、この時点で息子の本多忠勝がそれを継承します。

40年以上も経ってそれを徳川家康が採用したのです。

叔父に当たる本多忠真が本多忠勝を教育していきますが、13歳になると元服して「平八郎忠勝」と名乗り、同年 桶狭間の戦いの前哨戦で初陣を飾ります。

その後15歳になった年、本多忠真が倒した敵の武将首を忠勝の手柄とさせようとしますが、「我何ぞ人の力を借りて以って武功を立てんや」と拒否し、自ら敵陣へ切り込み首級を上げています。

この頃から実戦での戦い方が常人を凌いでいたようです。

 

彼が所持していた槍は「蜻蛉切」という笹穂形刃渡り40cm以上の両刃付の柄の長さ6m(通常は4.5m)もある長槍で、突いたり横に払ったりするのにはかなり有利な槍ですが、長く重いので、使い回しには相当の力量が必要な代物でした。(蜻蛉が槍の穂先に止まるなり、真二つとなったそうです)

 

永禄3年(1563年)の三河一揆では、一向宗から浄土宗に改宗までして、松平元康(徳川家康)につき功績を挙げ、永禄9年(1566年)には、松平元康直轄の旗本騎馬隊の部隊長として活躍していきます。

三河一揆については後述の本多正信の所で説明したいと思います。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、捨身の覚悟で奮闘し、名前を馳せました。

この姉川の戦いが、本多忠勝躍進の契機になるので、詳しく述べさせていただきます。

 

織田信長は朝倉義景を討つ為に領内深く侵攻しますが、妹のお市を嫁がせていた浅井長政が朝倉側につき、退路を断たれる危機に陥りますが、木下秀吉(1573年改姓:羽柴秀吉)の退却援護防戦により危機を脱します。

怒り狂った織田信長は、直ちに2万5千の兵力を整え報復攻撃を開始します。

この際、同盟関係を結んでいた徳川家康は本多忠勝を含む5千の兵力で討伐に参加します。

浅井氏の居城 小谷城は籠城されると難攻不落となると、かつてから有名であったので、城より南に数十Km下った所にある姉川の対岸に位置する横山城(姉川近くに位置し、近江中心の要衝)を攻めて誘き出す作戦を採ります。

 

姉川南方に位置する横山城包囲の配陣では、稲葉一鉄・氏家直元・安藤守就を北側に、南側には丹羽長秀を配して、織田本陣は横山城側の姉川西側寄りに池田恒興・木下秀吉・柴田勝家・森可成・佐久間信盛等を鶴翼の陣形に13段階に設けます。

これに対して浅井側は姉川対岸の北に磯野員昌・浅井政澄・阿閉貞征・新庄直頼・真柄直澄等8千の兵力をこれも段階状に配します。

一方 徳川家康は、姉川東側寄りに酒井忠次・小笠原長忠・石川数正・榊原康政等5千の兵を配置し、これに対して朝倉側は、姉川対岸に朝倉景紀・前波新八郎等1万の兵を配します。

 

戦いは、徳川家康の酒井忠次・小笠原長忠軍が朝倉陣営に突入して始められますが、兵数の多い朝倉軍が有利に進みます。

この中で朝倉軍の豪傑と言われた真柄直隆(十郎左衛門:身長2m体重250Kgと言われています)が、千代鶴国安作の175cmもある名刀太郎太刀を振り回し、本多忠勝と戦いますが勝負がつかず、戦い疲れた後に向坂三兄弟が仕留めます。

その後も朝倉軍は、数に物を言わせて攻めて来て、徳川本陣が危うくなります。

 

そのような状況を打破すべく、本多忠勝は無謀にも朝倉軍正面への単騎駆けを行い、これを察した徳川軍全将は、本多忠勝だけを戦死させるわけにはいかないと、奮い立ち、朝倉軍正面への決死の一斉攻撃をかけます。

時を同じくして、徳川本陣警護の榊原康政も朝倉軍の西側横より攻撃を仕掛けたことにより朝倉軍は総崩れとなります。

朝倉軍は、総大将の朝倉義景が単なる浅井家の支援と、軽い判断をした為、参戦していなかったので士気は高くなく、半数の徳川家康軍に蹴散らされる羽目となったのです。

戦場では数倍程度の相手ならば将兵個々の士気の高さと戦術で優勢になる典型的な展開となったのです。

 

一方 織田軍は横山城包囲に5千の将兵をまわしていたので、浅井軍と実際に対峙するのは2万

で、対する浅井軍は8千と倍以上も少ない状況でしたが、自分達の滅亡が掛かっている浅井軍は死に物狂いで戦っており、その先鋒の磯野員昌の将兵はかなり手強かったのです。

その為、13段階布陣の11段階まで崩され、織田本陣も危うくなり、姉川より1Km近くも下がった所にまで本陣が退避させられました。

しかし、横山城を包囲していた稲葉一鉄が浅井軍の西側面から、氏家直元が浅井軍の東側面から攻撃支援を行い、朝倉軍を蹴散らした徳川軍が西側より攻めてきたので西側面より総崩れとなります。

 

この戦いで、浅井・朝倉軍は2千人の死者と5千人程度の負傷者、織田・徳川軍は1千人の死者と3千人程度の負傷者を出したようで、姉川が血で赤く染まったそうです。

現代でも通常 行軍型軍隊では定員(総数)の3割がダウンした場合、軍隊としての機能を失います。

浅井・朝倉軍の1万8千で考えると、実際に戦闘する将兵は1万程度で後は輜重兵(輸送等の後方支援)なので、実際に戦える残存兵力は3千(1万−2千−5千)となり、これだけでも組織的な戦闘能力を失っていますが、更に戦場からの負傷者救出対応に同数以上の兵力が入用になるので、ほぼ壊滅状態だったと言えます。

この戦いで、本多忠勝は勝敗転機での機を捉えた単騎駆けの剛の者という評価を全国に広めました。

 

また、この後 天正12年(1584)、豊臣秀吉と徳川家康とが戦う「小牧・長久手の戦い」が勃発します。

小牧の戦で膠着状態となっていた為、これを打破しようと徳川家康が留守にしている三河へ攻め込もうと、羽柴秀吉側が秘策を巡らし1万程度の兵力で進軍を始めますが、それを察知した徳川家康は小牧に石川数正・酒井忠次・本多忠勝を留守舞台として残し、長久手に向かい急襲をかけて殲滅させます。

これが長久手の戦いの結果ですが、この敗戦の報を受けた羽柴秀吉は、自ら8万の援軍を仕立てて出陣をします。

小牧付近で羽柴秀吉の馬印を掲げた大軍を目にした本多忠勝は、石川数正等の制止にもかかわらず、500の手勢を率いて、川を挟んで行軍する羽柴秀吉軍と並行して長久手へと急ぎます。

その合間にも羽柴秀吉軍に鉄砲を撃ちかけたりしますが、相手にされません。

竜泉寺にまで来た所で、馬ごと川に飛び込み、その水で乾いた口を注いだ時、羽柴秀吉は向こうに見える鹿の角のついた兜のあの者は誰かと、稲葉道朝に聞きます。

姉川の戦で活躍した本多忠勝との答えに、羽柴秀吉は僅か500の手勢で8万の軍隊に挑むのは余程忠義の者に違いないと涙を流し、自軍の鉄砲隊・弓隊に対して撃ってはいけないと制止させます。

現代ならば直ぐにでも射殺されますが、当時は例外も有りますが、将たる者には、戦う相手に対する思いやりと尊敬の念があったのです。

そうこうして、両者は長久手に着きますが当然勝負はついた後で誰も居ません。

呆然としている本多忠勝に既に勝利して殿は小幡城に引き上げたとの知らせがあり、城で殿と再会します。

当然 羽柴秀吉の軍隊は無傷なので、この後に行なわれる蟹江城の戦いへと続きます。

羽柴秀吉と徳川家康の和睦後、羽柴秀吉に召しだされ、秀吉の恩と家康の恩どちらが重いかと聞かれると、「君のご恩は海よりも深いと言えども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたそうです。

正に公私共に主君に忠義を尽くす武士であったことが分かります。

 

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、井伊直政と共に1番手として出陣する手筈でしたが、その直前に井伊直政が病欠となった為、本人と長男の本多忠政は自軍の指揮を、井伊隊は次男の本多忠朝に指揮させ急場を乗り切ります。

西軍に参加した真田昌幸、真田幸村の処置については、徳川家康・秀忠とやり合います。

徳川家康・秀忠は、真田に上田城の戦い・関ヶ原の戦い(徳川秀忠は真田にてこずり、戦いに参加できませんでした)で痛い目にあっているので、死罪を主張しますが、殿との一戦も覚悟しての助命嘆願により死罪は免れ、九度山での謹慎処分となります。

これには裏が有り、上田城の戦い(徳川勢はコテンパンにやられるのですが)での真田の戦術に惚れ込み、本多忠勝は真田を取り込む計画を立て、自身の娘である小松姫を真田昌幸の長男 信之に嫁がせたのです。

男ができる男に惚れ込むとは、こういう事なのかと改めて思います。

関ヶ原の戦い後は、伊勢の桑名10万石の城主となり、大多喜5万石は次男の本多忠朝に与えられます。

 

本多忠朝は、後に(1609)大多喜岩和田沖で座礁沈没したスペイン船サン・フランシスコ号の前マニラ総督府長官であったドン・ロドリゴ以下乗組員3百余名を助け、寛大な処置を行い徳川家康に謁見させます。

徳川家康は技師のアダムスに和製のガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(和名:按針丸)を作らせ、翌年彼等はそれに乗船してメキシコアカプルコに帰港します。

この時に京都の商人21人も乗船しスペイン・メキシコとの貿易交通の手がかりとなります。

しかし、キリシタン大名達の船舶乗務員達が東南アジアで暴動等を発生させそれを統治するスペイン総督府が死罪・日本への追放等を行っており、あまり良い関係とは言えませんでしたが、スマートな対応で徳川家康の意にも沿っていたのです。

 

 

<本多彦八郎家系統>

本多忠次には嫡子が居なかったので、共に戦いを同じくした、盟友の徳川四天王の1人である酒井忠次の次男(酒井康俊)を養子に迎え、本多康俊と名乗り、三河の西尾藩2万石の大名となり、大阪の役以降は近江の膳所藩3万石大名となり、幕末まで続いていきます。

 

 

<本多作左家系統>

三河の三大奉行と言われた1人で、「鬼作左」の異名を持つ本多重次(作左衛門)の家系です。

性格は豪胆で上下関係考慮せずに何でも発言・行動する人で、戦場では多くの首級を挙げる猛者だったようで、奉行には向かないとされていたらしいですが、公正に正しい裁きを行なう等、何でもできる人物と評価されています。

彼の性格を表す物として日本一短い手紙がありますので、紹介いたします。

これは天正3年(1575年)の長篠の戦場から妻に宛てて出したもので、「一筆申す 火の用心お仙痩せさすな 馬肥やせ かしく」という内容のものです。

お仙とは、彼の息子 成重の幼少名です。

 

羽柴秀吉と徳川家康が天正14年(1586年)に徳川家康が羽柴秀吉に従属する証として、次男の秀康を羽柴秀吉に差し出し、本多重次もそれに付き添う小姓として息子の本多成重を差し出します。

代わりに、羽柴秀吉からは大政所を預かり、その世話を本多重次がすることとなります。

しかし、本多重次は自家の存続を一番に考え、1年後には病気の治療と偽り、自分の息子(本多成重)と甥(本多富正)を交代させます。

また、羽柴秀吉側の人質として迎えた 大政所の住まいの周りに大量の薪を集め、こちら側の人質にもしもの事があれば、大政所を丸焼きにする姿勢を示し、大政所の扱いも粗雑だったようです。

また、羽柴秀吉が小田原成敗の帰りに岡崎城に寄った時も迎えに行かず、数度の呼び出しにも応じなかったとされます。

その為、羽柴秀吉から徳川家康に「無礼者の本多重次を蟄居せよ」と命令が来て、3,000石の蟄居生活で生涯を閉じます。

 

しかし、子の本多成重は越前の丸岡藩4万石大名となりますので、徳川家康はかなり本多重次を評価していたと思われます。

しかし、4代目藩主の本多重益の時代に、施政は家臣に丸投げし、自らは酒に溺れ、実子も無かった為、家臣間で実権を巡る内紛が生じます。

本多織部派と太田又八派が激しく争い、収集がつかなくなって行きます。

幕府はその騒動を見逃せず、元禄8年(1695年)家臣団の統率ができない理由で改易します。

しかし、宝永6年(1709年)徳川家宣の時代に恩赦が下り、翌年2,000石の旗本として復活し、肥前福江藩の五島盛暢の次男成興が養子に入り後を継ぎます。

 

 

<本多彦次郎家系統>

本多姓を名乗り始めてから3代目の本多助政子息の時代に宗家から分家した本多定正系統の分家に当たります。

本多定吉の嫡男本多正明は、本多正信・正重系統へ、次男本多正経の系統となります。

本多康重(彦次郎)の時代に姉川の戦い(元亀元年:1570年)・長篠の戦い(天正3年:1575年)で活躍し、徳川家康の関東移封時には、上野白石藩2万石が与えられ、関ヶ原の戦い後は三河岡崎藩5万石が与えられ、嫡男の本多康紀が後を継ぎます。

 

 

<本多弥八郎家・三弥左衛門家系統>

本多正信は、本多俊正の次男として生まれ、松平家康に仕えていましたが、三河の一向一揆で離反します。

 

三河は一向衆徒(浄土真宗)が多い地域(東三河は曹洞宗勢力が強かったので、それ以外の地域)で、15世紀後半には蓮如の熱心な布教により、本願寺派の教団ができており、彼も敬虔な衆徒でした。その為、本願寺が扇動して一向一揆(永禄6年:1563年)が発生した時には、一揆側に弟の本多正重と共につき、松平家康と対峙します。

 

そもそも事の発端は、松平家康の父 松平広忠が領内の本願寺拠点となる三河三ヶ寺と呼ばれていた、本澄寺・上宮寺・勝鬘寺に守護使不入特権を与えていたことに起因します。

その為、寺領内で採れた米を本願寺に上納し、また松平家臣達に貸付を行なう等の商売をして、統治を進める松平家康に大きな障害となっていました。

また、桶狭間の戦い(永禄3年:1560年)この戦いで本多正信は足を負傷し、引きずるようになります。

これ以降、勢力の衰えた今川氏領域の東三河を攻略すべく軍費の調達強化の為、寺院からも年貢を徴収することにした為、松平家康に対する反感は増大し、上宮寺境内に勝手に松平の砦を建築した、本澄寺に逃げ込んだ無頼漢を松平家臣が捕獲した等々の出来事が重なり、永禄6年(1563年)に松平家臣が上宮寺の蔵を襲い、米を奪った事で一気に火がついたのです。

 

本澄寺の空誓(蓮如の孫)は上宮寺、勝鬘寺と連携を取り、衆徒を集結させます。

これに領地を失った吉良義照や領主の荒川氏、桜井松平氏、大草松平氏、今川家の残党が加わります。更に松平家臣からも一向宗信者の本多正信・正重兄弟、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、加藤教明、渡辺守綱、内藤清長等が参加し、他にも鳥居氏・石川氏・内藤氏内部からも参加する者が出ました。

その為、収拾のつかない状態と成り、松平家康は苦戦します。

一揆勢力は大きく岡崎城の手前の上和田城まで押し寄せ、参戦していた松平家康にも2発の銃弾が命中しますが、甲冑の厚い部分だった為、大きな怪我はしませんでしたが、山中八幡宮の鳩ヶ窟に退避するまで追い詰められます。

しかし、一揆側に対する懐柔戦略もしていた為、一揆側から戻ってくる者が増え始め、最後の勝敗を決める岡崎城合戦では勝利し、鎮圧することができたのです。

 

寺院と松平家康の関係は重要なので、もう少し深堀して説明することにします。

皆様も良くご存知の 織田信長と石山本願寺との戦いで、顕如は講和(天正8年3月:1580)を受入れて、石山本願寺から紀伊国鷺森(現在の和歌山市)に移ります。

しかし、息子の教如は徹底抗戦を選び、教如と袂を分けますが、織田信長には抵抗しきれず、天正8年8月に石山本願寺を明け渡しますが、直後に失火炎上してしまいます。

おそらく、織田信長に渡すぐらいなら燃やしてしまった方が良いと思ったのでしょう。

天正10年(1582)に本能寺の変で、織田信長が討たれると、朝廷の威信を回復すべく、後陽成天皇は、顕如と教如の関係回復を画策し、絶縁状態を解除させます。

しかし、10年後の文禄元年(1592)に教如は顕如から本願寺を継承しますが、側近人事に際し、自分の強硬派を重点的に採用した為、内部対立が発生します。

そのような中、かつての顕如側穏健派は豊臣秀吉に働きかけ、教如に十一ヶ条の問題点(教如は朝倉義景の娘三位殿と結婚していたので、これも問題とされました)を示し、10年後に教如の弟 准如に本願寺法主を譲る命令を出しますが、これに対して、教如派は豊臣秀吉に直訴しますが、これが事態を悪くし、10年後で無く即座に教如から准如に法王を交代させられます。

その際、豊臣秀吉から准如へ京都七条堀川の土地が寄進され、本願寺が再興されます。

 

豊臣秀吉 没後後の慶長7年(1602)に、今度は 徳川家康から教如は京都七条烏丸に寺領が寄進され、翌年には寺院建設が完了し、本願寺(西本願寺)に対して東本願寺が分立するのです。

石山本願寺は、元々大きな組織体であり、織田信長・豊臣秀吉と、権益を巡り対立姿勢にあった為、内部的に穏健派と強硬派に分かれるのも頷けますし、その後の徳川家康が三河一揆の苦い経験から、強大な組織を分立させ弱体化させる目的で土地を寄進した行為も合わさり、寺院運営も安定し現在に至っています。

 

 

<本多正信>

本多正信に話を戻しますが、この人は凄いですよ!

三河の一向一揆鎮圧後に、松平家康が反旗を翻した相手にも寛大な措置をとる意向を示していたにもかかわらず、三河を離れます。

そして何と! 織田信長に反旗を翻したにもかかわらず、殺されずに御目溢しをされた驚異の人 松永久秀(3回目は織田信長から、所有する平蜘蛛釜を差し出せば許してやるとの問いかけには、釜の中に爆薬を詰め込み、天守に上がり自爆します)に仕えるのです。

この倒錯した驚異の天才人から様々な帝王学を学び取るのですが、永禄8年(1565)の永禄の変により、松永久秀が三好三人衆と共に将軍足利義輝を殺害するに及び、その非常さにとてもついていけないと思ったのか、彼の元を去り、10年近くの放浪の旅を行います。

 

足利義輝は、当時の剣豪の最高峰 鹿島新当流の塚原卜伝の直弟子で、奥義である「一の太刀」を伝授される程の剣豪でもありましたので、二条御所の戦いでは数十人を切り捨てたみたいですが、多勢に無勢 疲れ果てた最後は畳を盾にした槍隊に囲まれ槍衾となり散り果てます。

 

松永久秀は本多正信のことを「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と高く評しています。

一向一揆に参加した関係上、石山本願寺辺りに庇護されていたと思われますが、古巣の三河が一番自分に向いていると思ったのでしょうか、松平家康時代からの同僚の大久保忠世に仲介して貰い、徳川家康への帰参を願い出ます。

大久保忠世は、彼が貧しい鷹匠の頃、生活面の面倒も看ていましたが、余程 彼の事を良く思っていたのか、熱心に帰参を取り計らいます。

その甲斐あって、本能寺の変前には帰参できたみたいです。

 

武田征伐以降の旧武田領の管理の表舞台には、直ぐに彼が登場します。

本領安堵を保障し、徳川家康への帰属を旧武田家臣に呼びかけ、実質 甲斐・信濃の統治を担当する奉行として活躍したのです。

天正18年(1590)の小田原征伐以降に豊臣秀吉の命令で関東移封となりますが、相模国玉縄の1万石の大名となります。

慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去すると、目の上の瘤が取れたがごとく、様々な謀をかけて政権奪取を図り、その立役者となります。

 

慶長4年(1599)徳川側は、前田利長への謀反嫌疑を仕掛けます。

前田家康は秀吉亡き後の五大老体制の中、徳川家康の力が増大し、覇権を画策しているのを憂い、自らの死の床で長男 前田利長に「自分の死後、3年間は上方を離れてはいけない」と諭すのですが、前田利長はボンボンだったので、その真意を読み取ることができなかったのです。

それからしばらくすると、徳川家康の毒牙に石田光成が引っかかり、奉行から引退させられます。

そうこうする内に、徳川家康から故郷の金沢への帰省を進められ、純朴な前田利長はこれに見事に引っかかってしまうのです。

恐らく、本多正信は徳川家康に、彼は貴方を殺そうとしていますと囁いたのでしょう。

慶長4年(1599)徳川家康は前田討伐に向かい、動き出そうとします。

当然、前田家は引っくり返る騒ぎと成り、戦うべきかそれとも弁明交渉で乗り切るかで、紛糾します。

前田利長は戦うべしと、考えていたようで、五大老の1人であった宇喜多秀家等を通じて豊臣家に働きかけますが、弱気の豊臣家はこれを謝絶します。

前田利長は母である芳春院(まつ)に相談しますが、他に援助が無ければ交渉しか道は無いと説得され、家臣の横山長知(反徳川派の急先鋒であった、芳春院の姉の息子 太田長知を慶長7年[1602]に利長の命を受け殺害します)を徳川家康の下へ3度も遣わせ、懸命の弁明工作をします。

 

結果 芳春院を人質として江戸へ差し出す事、前田利常(朝鮮出兵の時に、前田利家が肥前国[佐賀県]で布陣している間、侍女[後の寿福院]にお手付きをして誕生し、慶長5年[1600]跡継ぎの居なかった利長の養子となります)に、徳川秀忠の娘 珠姫を嫁がせる事、前田利長の隠居を条件に交戦を回避できますが、徳川家康に屈することになります。

その後、覇権に邪魔になっている上杉景勝を討つ為、徳川家康の会津討伐に参加する羽目になります。

この最中に石田三成が背後を断つ形で挙兵し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こります。

本多正信と彼の息子の本多正純は共に従軍します。

戦後、本多正純は石田三成の身柄確保を任され、徳川家康は石田三成の息子重家については、当初死罪を考えていたようですが、本多正信より、彼は僧籍に入る事を誓ってもおり、石田三成は徳川勢力圏外の西国大名を集め、関ヶ原の戦いという無用の戦を起こしたおかげで徳川が日本国を統一する礎となった功績があると家康を諭し死罪を免れさせています。

また、この一連の動きの中、弟の前田利政が病気と偽り参戦しなかった為 戦後、領地(能登領22万5千石、小松領12万石、大聖寺領16万3千石)は没収され、前田利長に加領され122万5千石の日本最大の加賀藩が誕生します。

 

慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍として、江戸幕府を開くと、本多正信は徳川家康に無くてはならない人物として重用されます。

徳川家康は彼を友とも呼んだといわれており、家康の寝所にも帯刀したまま、自由に出入りすることを許されており、蜜月の仲となっていたのです。

その為、周りからは妬まれる事があると強く認識しており、自身への加増等の恩賞には注意を払っており、息子の正純には常々「私の死後には、必ず加増されるだろうが、3万石以上は辞退せよ、辞退せぬ場合は禍が降りかかるであろう」と言い聞かせていました。

 

慶長10年(1605)に徳川家康が徳川秀忠に将軍職を譲り大御所となり、家康・秀忠との二元政治となります。

江戸幕府の徳川秀忠には、大久保忠隣、駿府の徳川家康には、本多正純が補佐としてつき、本多正信は両者の調停を務める役柄となります。

同年、前田利長は富山城を改修しながらそこに隠居しますが、慶長14年(1609)富山大火にて炎上した為 高岡城を高山右近に建てさせ、そこに住みますが、持病(梅毒)が悪化して病の床に伏せます。

梅毒については、1500年代から倭寇により日本国内に持ち込まれたと観られますが、この頃の武将では結構感染者が多いです。黒田如水、加藤清正、浅野幸長、結城秀康等・・・

 

慶長17年(1612)徳川家康は、前田利長は病に伏せており、藩主は年若い前田利常なので、補佐させるという名目で、藤堂高虎に仲立ちさせ、本多正信次男の本多政重を前田家に送り込みます。

当初は、徳川幕府の傀儡にさせようと思っていたかも知れませんが、本多政重は人間的に非常に良くできた人物であったので、前田家のために尽力し、徳川側が仕掛ける謀略に対応していきます。

そもそも、このキャッチボールをしながら前田家を取り込んでいくことが真意だったのかも知れませんが、そう考えると、本多正信の底知れぬ謀略の深さが見えてきます。

晩年は長男の正純と共に武家諸法度・公家諸法度の制定発布に尽力し、長期間維持できる徳川幕府の礎を築きました。

 

一方、息子の本多正純も徳川家康の懐刀として、吏務・交渉に敏腕をふるい、慶長13年(1608)、下野国小山藩3万3千国の大名となります。

駿府の徳川家康が在命中は、来る者敵なしの状態でしたが、元和2年(1616)徳川家康と本多正信が相次いで亡くなると、2万石加増され5万3千石となり、徳川秀忠付の年寄にまで上り詰めます。しかし本多秀忠は、権勢を誇る行為を繰り返しますので、徳川秀忠やその側近からは必然的に恨みを買うようになります。

3年後の元和5年(1619)、福島正則が台風による水害で、居城の広島城本丸・二の丸・三の丸と石垣を幕府に無断で修復し、元に戻す指示も守らなかった為、改易されますがこれに合わせて、自身への宇都宮藩15万5千石の加増とします。

これにより一挙に周囲からの反感が大きくなり、元和8年(1622)俗に言う宇都宮城釣天井事件が発生し、失脚してしまいます。

 

この事件は、徳川秀忠が徳川家康の7回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に泊まる予定であった為、本多正純が城の普請や宿泊所の造営を行いましたが、徳川秀忠の姉(家康の長女 亀姫)の加納御前から、宇都宮城の普請に不備があるとの密告がされます。

加納御前は、三河の奥平信昌に嫁ぎますが、非常に気の強い女性であった為、側室を置く事は許さず、4人の息子と1人の娘をもうけています。

関ヶ原の戦い以降、美濃加納藩への移転を契機に加納御前と呼ばれるようになりました。

娘が大久保忠隣の息子の大久保忠常に嫁ぎますが、大久保忠常は早世し、大久保忠隣は改易にされ、その原因は本多正信・正純の謀と読んでいました。

また、自身の長男の奥平家昌は早世し、その嫡男の奥田忠昌は、わずか7歳で宇都宮藩主となっていましたが、12歳になった時、下総古河藩に国替えとなり、代わりに本多正純が入ってきて、しかもこれまで奥平家がそこで10万石だったのに、本多正純が15万石というのも彼女のプライドをズタズタに切り裂いたのでした。

権力者の娘はプライドが高く怖いですね。

 

その為、徳川秀忠は、予定を変更して、宇都宮城には泊まりませんでした。

その後、徳川秀忠より、鉄砲の秘密製造、宇都宮城本丸石垣無断修理及び寝所に釣天井を仕掛けて暗殺を目論んだ等の11ヶ条を使者 伊丹康勝が本多正純に突きつけます。

これの返答には答えられたようですが、追加で行った三ヶ条(城の修繕で命令に従わなかった将軍家直属の根来同心の処刑、鉄砲の無断購入、宇都宮城での許可の無い抜け穴工事)については答えられなかった為、改易となり本田正純は流罪となります。

 

本多政重については後述しますので、本多正信と前田家の経緯について話を戻します。

慶長18年(1613)、徳川幕府から越中新川郡を返上すべしという儀が出されますが、前田家に仕えた本多政重の懸命の執成しで不問になります。

慶長19年(1614)大阪冬の陣が勃発しますが、前述のように徳川側への取込工作により、前田家は徳川側主力として最大の2万の兵力で参戦します。

徳川家康は長期の包囲戦により弱体化を狙う戦略で、前田利常・松平忠直・井伊直孝等の正面配置軍に塹壕堀を命じていましたが、前田軍直前の真田丸との間 東手には、篠山という小丘があり、真田の軍がそこに出張ってきて、銃撃を浴びせかけ塹壕工作作業を妨害します。

そこで前田軍の先鋒部隊は、夜陰に紛れて篠山に攻撃をかけますが、もぬけの殻で、翌早朝 真田丸より挑発があり、これに乗ってしまい何の準備も無く攻撃をかけます。

ちょうどその頃、大阪城側でも大きな爆発音があり、内通者の合図と勘違いした井伊隊・松平隊が真田丸の西側正面にこれも準備なしに攻撃を仕掛けます。

当然、真田勢等の思惑通りに城壁前に掘られた大きな空堀に入った所で銃撃の雨となり、釘付けとなります。

この頃は、鉄砲の銃撃はポピュラーな物となっていたので、それを防ぐ何重もの竹束盾や鉄盾を用意するのですが、それを所持せずに攻撃を掛けたのです。

惨状を知った徳川家康の退却命令が直ぐに掛かるも、引くに引けずの状態となり、攻撃部隊はほぼ全滅状態となります。

その翌年には大阪夏の陣が始まりますが、ここでも先鋒部隊を命じられ、大野治房軍と戦いますが、城の堀は無く、勝利を収めます。

既にこの頃には本多正信は、病が重くなり、古傷の戦傷も悪化し動くことができない状態となります。

 

 

<本多政重>

さて、次は加賀本多博物館館長の本多政光氏の系統である本多政重についてお話しいたします。

父親の本多正信もユニークな経歴を持っていましたが、次男の本多政重もそれに輪を掛けた経歴の人物です。

 

本多正信の次男として天正8年(1580)に出生しますが、父親の本多正信は三河の一向一揆で徳川家康に反旗を翻した経緯も有り、再雇用されたとはいえ、徳川家康は一揆前の彼の才能を良く知るが故に、冷たく扱います。

当時は40石の食い扶ちで、鷹匠の高木九郎広正配下として勤務しており、かなり貧しく再就職を仲介してくれた大久保氏から生活の援助をしてもらっていました。(後に息子の代になって大久保氏を貶めます)

才能が有る故に、裏切られたら強敵となる。

徳川家康は最初そう思っていたようであり、本田正信長男の正純を人質に取っていました。

そのような中で次男として生まれ、育っていきます。

 

本田正信は、戦での戦闘能力がかなり低かったので、限りある恩賞の配分に不満を持つ諸大名の矛先は常に彼に向けられ、弱いくせに命令する、卑怯者等の罵声は常に浴びせられていたようです。

しかし、弱いながらも体には無数の刀傷が有り、精一杯戦っていた事が分かるので、幼少の本多政重は堪らなく悲しかった事と想像できます。

その為、彼は強くなりたいと武芸に一層励みますが、父の文官としての教育方針とは合わず、諍いが耐えなかったようですが、父親としては長男が人質に取られているので、次男は手元で育てたいという意思が強かった為、なおさら反発したのでしょう。

そのような中、天正19年(1591)倉橋長右衛門からの養子縁組の話が持ち上がると、本多政重は渡りに船と、進んで養子となります。

 

慶長2年(1597)、本多政重は、徳川家康三男の徳川秀忠の乳母 大姥局の子息である岡部荘八

と酒を酌み交わしている際に、岡部荘八が酔った勢いで、本多政重の父 本多正信に対する誹謗中傷を言い始めます。

いつもなら聞き流す本多政重も、終わり無く誹謗中傷を続ける岡部荘八を思わず切り捨ててしまうのです。

当然ただでは済まないと思い、養父である倉橋長右衛門に詫び状をしたため、伊勢山田に出奔し、正木左兵衛と名前を変えます。

直ぐに、倉橋長右衛門は本多正信に事の次第と詫び状を見せます。

本多正信は、父親との結びつきを語るその内容を読むにつれ、自分自身の保身の為に、徳川家康・秀忠への言い訳や政重の処分ばかりを考えていた自分を恥じ、切腹も覚悟し倉橋長右衛門に感謝し平伏するのです。

この事はたちまち日本中に流れ、本多正信は京に居る徳川家康へ、罪は全て自身にあり、どのような処罰も受けますという内容の手紙を認めます。

その後、お手打ち覚悟で、徳川秀忠にお詫びの挨拶に伺いますが、既に徳川秀忠には徳川家康から今回の事を不問にする旨の連絡が届いていたのです。

 

伊勢山田に居る本多政重には、本多家の息の掛かった多くの人達から秘密に援助が有り、一人ではありませんでした。

そのような経緯があり、半年後には大谷吉継の家臣となり、京に移ります。

しかし、慶長3年(1598)秀吉の死後から大谷吉継は次第に徳川家康に接近します。

本多政重からすれば、徳川より離れたかった事は否めませんが、その影響力による大きな時代の流れに翻弄されることになります。

慶長4年(1599)宇喜多騒動が発生します。

宇喜多直家亡き後は、宇喜多秀家が当主となり、宇喜多三老によるバックアップ体制を採っていましたが、宇喜多直家時代からの重臣である長船貞親は暗殺され、叔父の岡豊前守は病死して、昔からの重臣が不在となった為、戸川達安が取り仕切ることとなります。

しかし、宇喜多秀家は長船紀伊守を支持し国政を任せようと計らい、戸川達安等と対立するようになります。

そのような中、天正14年(1586)宇喜多秀家は、前田利家から羽柴秀吉の養女として差し出されていた豪姫を正室として娶りますが、その際に前田家から豪姫直参の付人である中村次郎兵衛が新たに家臣に取立てられ、宇喜多秀家の信任を受けると両者の溝は益々深くなっていきます

そのような中、戸川達安・岡利勝等が、宇喜多秀家側近の中村次郎兵衛の処分を迫りますが、宇喜多秀家はこれを撥ね付け、中村次郎兵衛は前田家に逃れます。

戸川達安が大阪城下の武家屋敷を占拠するに至り、宇喜多秀家は戸川達安を討とうとしますが、昔から彼とそりが合わなかった宇喜多詮家(後に坂崎直盛と改名)が戸川達安を庇い自宅に立て籠もります。

その騒動の調停を大谷吉継と榊原康政がするのですが、途中で榊原康政は領地での国政が滞ることになり、離脱します。

大谷吉継も一人では手に負えず、徳川家康が介入し、戸川達安等の家臣は蟄居処分となり、軍事的にも組織的にも脆弱化します。

正にこのタイミングで、本多政重は大谷吉継のもとを離れ、宇喜多秀家に2万石の家臣として仕えるのです。

 

豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康を抑えていた要の前田利家が慶長4年(1599)に病死すると、豊臣家武闘派の加藤清正・福島正則等と文治派の石田三成等の対立が表面化し、武闘派の加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・細川忠興が石田三成の屋敷を襲撃しますが、豊臣秀頼に仕える桑島治右衛門の通報で、事前にそれを察知した石田三成は、佐竹義宣の屋敷に逃げ込みます。

武闘派は大阪城下の大名屋敷を探し回り、佐竹義宣の屋敷にも加藤清正の兵が迫ります。

そこで、佐竹義宣は石田三成を女輿に乗せて宇喜多秀家の屋敷に匿い、協議の結果、徳川家康に仲裁を願う為、石田三成の城内管理区(大曲輪:治部少輔丸)も備わっており、防御に優れている伏見城の徳川家康の元へ行き仲裁して貰います。

しかし、これにより石田三成の政治的地位は失墜し、徳川家康の覇権が進む結果となります。

宇喜多秀家は、豊臣秀吉が晩年、急遽 五大老に組み入れた若手の反徳川の武将でもあった為、石田三成の窮地を救ったのでした。

 

慶長5年(1600)に、徳川家康が上杉景勝を討つ会津征伐に出かけ、畿内を留守にした隙にいの一番に、宇喜多秀家が出陣し、その後に石田三成を中心として大谷吉継・毛利輝元等が挙兵したことを江戸城で知ることになります。

上杉景勝に対しての抑えとして、結城秀康を残し、徳川家康本隊は東海道を通って、徳川秀忠は中山道を登り真田を討ってから西進することになります。

途中の領地内にある豊臣家の武将が離反する可能性があるので、二手に分けて進軍させた方が、一方が梃子摺った場合に他方が西進を急ぐことができるので、分ける必要があったのかも知れません。

今から思えばこの別行動は失敗し、徳川秀忠は真田軍に翻弄され関ヶ原の戦いには間に合わなくなり、リベンジどころか再度、真田にやられる結果となります。

上杉景勝はこれに対して、先ずは後方の安全確保の為、最上義光を攻めます。

最上側は多くの支城に兵力を分散していた為、各個で撃破されていきますが、途中で最上側に加勢する伊達政宗の援助部隊が到着した頃より巻き返しに転じ、関ヶ原の結果が知らされた後は上杉側の撤退となります。

 

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいて、最初から関ヶ原で戦う意思は石田三成にはありませんでした。

当初は素早く畿内周辺を押さえ、尾張・三河国境にて徳川家康と戦う計画でした。

しかし、その前哨戦である大阪に居る諸大名の妻子を人質に取る作戦において、加藤清正・黒田長政等の妻子が逃亡し、細川忠興の妻 ガラシャが自害するに至り、非情に成り切れない石田三成は、作戦を中止します。

次に鳥居元忠が頑強に抵抗する伏見城攻略作戦を開始しますが、攻略までに10日以上も掛かり、スピードが勝負の尾張・三河への進軍スピードが鈍り、後の展開に響いてきます。

石田三成は丹後制圧に小野木重勝、伊勢制圧に宇喜多秀家・毛利秀元等、北陸道制圧に大谷吉継、美濃制圧に石田三成自身と、兵力を分散しますが、伏見城攻略でのロスタイムに東軍に準備期間を与えてしまい、迅速さが欠落した勝ちの薄い作戦となってしまいます。

諸城の攻略に梃子摺り、東軍が清洲城に向かう段階になると、尾張・三河国境での決戦を諦め、その頃 石田三成が占拠していた大垣城に集結し、木曽川での決戦計画へと変更します。

前述しましたが、ここで、上杉景勝は徳川家康を後方より攻撃せず、最上義光を攻撃することを選び、佐竹義宣は石田三成に呼応して徳川の関東地区へ攻め込む計画でしたが、一族が反対して実現しませんでした。

この頃、徳川家康は江戸に留まり続け、諸大名へ、200通もの書状を送り続けますが、これも後で戦の勝利に貢献することになります。

岐阜城が陥落した報告を受けてから、徳川家康は出陣し、美濃赤坂に陣を張ります。

石田三成は大阪城に居る豊臣秀頼・毛利輝元の出馬を再三要請しますが、臆病な淀殿に制止されます。

 

この頃、京極高次や前田玄以が西軍から離脱する事態が起こり、その後 徳川家康が中山道を西方へ移動する動きを察知した石田三成は大垣城を出て、関ヶ原へと向かい、それに呼応して徳川軍も関ヶ原へと向かいます。

石田三成は北西の笹尾山に布陣し、前方には島左近を配置、西方の天満山には島津義弘とその前方に島津豊久が布陣、其処から西南の松尾山に陣取る小早川秀秋の間には、北方より小西幸長・宇喜多秀家・本多政重等が布陣し、小早川の動向に不安のある大谷吉継が小早川の直ぐ真北に布陣します。

小早川の前方直ぐの北東には赤座直保・小川祐忠・朽木元綱、脇坂安治のいずれも西軍を裏切る面々が布陣を張ります。

毛利秀元は関ヶ原からかなり離れた南宮山東の山頂に布陣し、その山から降りる出口に毛利家の分家の吉川広家が毛利軍の下山を防ぐ格好で布陣し、戦いに参加させぬようにします。

徳川家康の東軍は、本陣は関ヶ原を一望できる桃配山の北麓近くに布陣し、西軍 島左近の向かいに黒田長政、西軍 島津軍の前には田中吉政、西軍 宇喜多軍の前には福島正則・藤堂高虎を配置します。

戦いは濃い朝靄の中、東軍一番手は福島正則でしたが、後方の松平忠吉・井伊直政軍が前に出てしまい、宇喜多軍と火蓋を切ります。

ここで、本多政重は宇喜多軍の家臣として、元同僚の井伊直政軍と戦い、後方から観戦していた徳川家康が、あのすばらしい戦いをしている武将は誰かと問うた程に、華々しく戦うのです。

北側では、少人数ながら島左近軍は強く、多勢の黒田軍を翻弄しますが、待ち伏せていた黒田軍の鉄砲隊によって殲滅させられ、島左近軍の後方に詰めていた石田三成本隊との戦闘が本格的に始まります。

この時点で、石田三成は戦を傍観している島津義弘・豊久軍に参戦するよう催促しますが、動きません。

一進一退の攻防戦が繰り広げられますが、昼近くに小早川秀秋が裏切り、大谷吉継に攻めかかりますが、ある程度裏切りを予想して、準備をしていた大谷吉継は、直ちに応戦します。

しかし、この裏切りに呼応した赤座直保・小川祐忠・朽木元綱、脇坂安治の反逆軍が加わることにより、押し負かされ壊滅してしまいます。

西軍の本来ならば最強の鶴翼陣構えの南方翼が崩壊したのを徳川家康は見逃しませんでした。

温存していた自軍3万の兵を前線に投入し、宇喜多軍の側面を突きます。

これにより、宇喜多軍は総崩れとなり、小西行長軍も同様に崩れ敗走します。

宇喜多秀家は裏切り者の小早川と刺し違えても討つと叫びますが、家臣の説得により落ちのび、伊吹山に逃げ込みます。

山中で落ち武者狩りをしていた矢野五右衛門に出くわしますが、哀れに思ったのか自宅に40日も匿われ、その後 薩摩へ後述する関ヶ原から中央突破して帰郷する島津義弘を頼り、薩摩の牛根郷に匿われます。

心底生涯、宇喜多秀家に仕えることを誓っていた本多政重は敵陣に切り込んで散る覚悟をしていたようですが、殿が無事に戦場から離れた事を知らされ、主君と同様 彼も近江堅田へ落ちのび隠棲します。

石田三成も支えきれずに総崩れとなり、敗走します。

そうなると後に残るのは取り囲まれた島津軍のみとなり、多大の犠牲を出しながらの決死の中央突破をします。

開戦前は1,500前後の兵力でしたが、逃げおおせたのは島津義弘以下80人程度となります。

 

戦後処理として、本多政重はお咎めなしという処分となります。

本多正信の次男であったからとするだけでは、あまりにも寛大な扱いであり、徳川家康と本多正信の裏に潜む大きな思惑が有ったとしか思えません。

 

また、本多政重の安泰を知った前田利長と小早川秀秋等の東軍の大名から多くの仕官のオファーがありますが、これを断り、福島正則に3万石で仕えることになります。

多くは徳川家康・本多正信との繋がりを求めてのものでしたが、福島正則は違いました。

関ヶ原の戦いで、福島正則は自分の隊が最強と思っていましたが、真っ向から戦いを挑み、一時は押し返されるほどの手強さを見せつけた本多政重、あの戦さ下手の本多正信の息子 息子があれ程なら親父はどれ程の力量を持っているのだろうか。

その爪を隠して居ればこそ重臣として君臨しているのだろうと思い込んだのでした。

それ故、本多政重に惚れ込み、何があっても彼が欲しくなったのです。

福島正則の使者達は、本多政重に何の成果も無く帰りましたら切腹と泣きつき、自身も人の哀れを経験してきた本多政重は断れきれなかったのです。

関ヶ原での本多政重の活躍は諸大名の中でも噂になっており、戦さ下手の本多正信への誹謗中傷もこれを機にされなくなり、逆に爪を隠しているすごい御方と評価されるようになり、本多親子は精神的に固い絆で結ばれるようになるのです。

 

福島家に仕えて2年ほど経過したある日、宇喜多秀家の正室豪姫より、生家である前田家に使えて下さいとの依頼が来ます。

本多政重は断れず金沢へ行き、前田利長に面会し、宇喜多秀家に似た一途な所が気に入ります。

福島正則は、元々酒癖が悪く粗暴な行いが多かった主君なので、「家風宜しからずに依りてなり」と、退去し、慶長7年(1602)前田利長に3万石で仕えます。

 

薩摩に逃れた宇喜多秀家ですが、島津氏が宇喜多秀家を匿っているという噂が広がった為、止む得ず慶長8年(1603)に島津忠恒(島津義弘の息子)により、宇喜多秀家が徳川家康に引き渡されます。

死罪は確実と思った本多政重は前田利長に、元の主君である宇喜多秀家 極刑は必至、生死を共にすると誓ったので殉死したいと、暇を願い出、前田家を後にします。

その思いを酌んだ前田利長は、豪姫や島津忠恒と共に、徳川家康へ懸命に助命懇願をし、本多政重には宇喜多秀家が助命されたら再度 前田に仕えてくれと依頼します。

その結果、宇喜多秀家は死罪を免れ、駿河の久能山に幽閉された後、八丈島へ息子達と共に流刑となります。

 

ここで、その後の八丈島へ流刑にされた宇喜多秀家について述べることにします。

花房正成は、宇喜多秀家の家来でしたが、戸川達安が失脚し長船綱直が実権を握った頃より、宇喜多秀家から遠ざけられ、宇喜多騒動後は宇喜多家から身を引きます。

しかし、関ヶ原の戦い後は、前田利長の仕官の誘いも断り、宇喜多家再興に尽力するのです。

その為、八丈島へ流刑にされた宇喜多秀家に前田家と協力し合って、当初は幕府黙認での形で助成米等を送り、後半では2年毎に70俵の米を援助することが許され、送り続けます。

一方 慶長7年(1602)には徳川家康から花房正成に仕官の誘いがあります。

徳川家康は、宇喜多騒動後に戸川達安を召抱えていた関係もあったので、戸川を慕っていた花房正成はそれを受けて備中猿掛の5,000石旗本となります。

元和2年(1616)宇喜多秀家の流刑の刑が解除となり、前田利常から10万石のオファーがありますが、宇喜多秀家は八丈島に残る事を選んだので、花房正成は衝撃を受けて寝込んでしまいます。

彼は晩年まで宇喜多家の再興を夢見ていたようで、花房の家名が有る限り宇喜多家を支援することを遺言に残しています。

 

宇喜多秀家は流罪となったので、前田利家は、再び本多政重を呼び戻そうとしますが、その矢先 直江兼続から重大な依頼が舞い込みます。

それは、前田家の家臣であった本多政重を是非とも直江家の娘婿に迎えたいとの内容のものでした。

この頃の上杉家は、最上軍との戦いは有利に進んでいたが、伊達軍が介入してからは不利となり、最上義光の山形防衛において重要な山城の長谷堂城で釘付けになっている所へ、関ヶ原で西軍が大敗したとの報が伝えられ、これまでと思った直江兼続は自害しようと思いますが、前田慶次郎に諌められて米沢へ撤退するのです。

この長谷堂城からの撤退作戦は、直江兼続が殿(撤退する本隊を守る為、最後尾で敵を迎え討ちながら、引き揚げるというトカゲの尻尾切り覚悟の任務)を務め、鉄砲隊を駆使し、要所要所で見事に最上・伊達連合軍に足止めをさせる等、後年の日本陸軍の教本にも載った程のすばらしい撤退でした。

一方、徳川家康の東軍内部にも重要な問題がありました。

それは、西軍側とみなされていた豊臣家恩恵の毛利氏等どうなるかわからない諸氏を多く抱えており、早急に東北へ軍を向かわせる訳にもいかない状態だったのです。

そこで、徳川家康は上杉家の改易として、米沢30万石への減俸を提示し、上杉側はこれを飲んだのでした。

 

/4の石高での米沢への転赴について、家臣には去ることを許さない方針を採りますが、総勢3万人近くの家臣及び家族にとっては過酷なものでした。

自らも報酬を減額し、各人の住居の周りには柿栗等の実が生るものを植え、生垣には食用できるウコギを植え、石高を増やすために新田開発等、ありとあらゆる手段を取りましたがそれでも苦しい。

なんとか財政援助か多くの家臣家族の為の友好な再仕官が見込める先の確保と、これからも上杉家安泰の保障が欲しいと、直江兼続は考え、前田家から惜退したばかりの本多政重に目をつけたのです。

 

慶長8年(1603)の本多政重惜退直後は、いずれ嫡男の居ない上杉景勝の跡取りにと考えていたようですが、慶長9年(1604)に上杉景勝に嫡子 上杉定勝が生まれます。

直江兼続には嫡子 直江景明が居るにもかかわらず、政治的要因を優先させ、この養子縁組を進めるのです。

当然、徳川幕府もこの件を知ることになりますが、大幅な減俸改易後にもかかわらず、家臣を削減せずに兵力を温存したままの上杉家の実情をリサーチするには都合が良いものでした。

慶長9年(1604)本多政重は直江兼続の娘 於松を娶り、直江大和守勝吉と称するようになります。

同年、直江兼続は2歳下の次男、大国実頼の一人娘の阿虎を直江兼続の養女として迎え入れた後に、本多政重と養子縁組をさせようとしますが、大国実頼は猛反対をします。

関ヶ原の戦い後、大国実頼は上杉家・直江家と距離を置くようになっており、上杉家からの米沢入りの命令も無視して伏見に滞在していたのです。

直江兼続は家来の西山左エ門宗秀・飯田実相坊元貞を、本多政重を迎える使者として上京させますが、伏見の宿で待ち伏せた大国実頼に斬られ、大国実頼は高野山へ逃亡し犯罪者として断絶されます。

当然そこには本多政重側の付き人も居ましたが、彼等を斬ると下手をすれば御家は断絶、直江家側の使いを斬れば犯罪人とはなりますが、その娘は犯罪者の娘となり、本多政重の養女にはできないと考えたからなのです。

その翌年の慶長10年(1605)於松は病死してしまいますが、直江兼続は本多政重に懇願して養子縁組を継続します。

 

直江兼続は本多政重の養子継続に婚姻は必須条件である事を承知していましたが、犯罪人の娘である阿虎を嫁がす訳にもいかず悩んでいました。

そのような状況を本多政重は良く理解しており、犯罪人は大国実頼であり、阿虎は既に直江兼続の娘なので、婚姻させてくれるよう申し出たのではないでしょうか。

寡夫となっての3年間は、互いにしこりの残る阿虎との摺り合せ期間であり、また徳川幕府及び本多正信や依然勢力のある豊臣家とその保護者的立場にある旧仕官先の前田家や現在の上杉家・直江家の関係を彼なりに整理する期間でもありました。

慶長14年(1609)に、本多政重はおきたまの扈三娘と言われた美貌の誉れ高い女剣士 阿虎を娶りますが、本多安房守政重と名乗り、近い将来上杉家・直江家を出ることを示唆します。

同年に、直江兼続の嫡男 直江景明が本多政重の父である本多正信の媒酌で徳川家康近習の重臣 近江膳所城主の戸田氏鉄(弟の為春は本多政重と共に徳川秀忠の乳母の子 岡部荘八を一緒に殺害した本多政重の友人)の娘を娶り、本多正信の執成しで1/3に当たる10万石の軍役が免除されるのです。

既にこの頃には本多政重は、直江家は本来の嫡男 直江景明が継ぐと決断し、自身は豊臣家との関係も深かった前田家へ戻り、徳川幕府との良い関係を築けるように行動する事を決意していたようですし、徳川幕府側も直江景明の婚姻を自ら誘導することで上杉家・直江家への懲罰終了の宣言をしたのです。

翌年の慶長15年(1610)に本多政重と阿虎の間には待望の嫡男 政次(18歳で早世)が生まれます。

 

そのような中、慶長16年(1611)に急いで上杉家・直江家を出て、幼少期に鷹匠預かりであった父親と過ごした武蔵国岩槻にて逼塞(謹慎という意味なのです)します。

これは、この年に徳川幕府は諸大名宛に「三か条の置目」を発令しており、内容は将軍家への忠誠、法度違反者の放置禁止、叛逆者や殺人者の排除の遵守を誓わせるものでした。

本多政重は正にそれに抵触する経歴の持ち主であり、このまま直江家にいては上杉本家・直江家に迷惑が掛かると判断した為、直江家を離脱し、藤堂高虎が策定した逼塞という処遇に甘んじたのです。

藤堂高虎の書簡では既に本多政重の前田利常付が決定されていました。

 

慶長17年(1612)に、計画通りに藤堂高虎の執成しで前田家に3万石の家臣として帰参します。

この頃は、前田利長は持病の梅毒が悪化して隠居しており、まだ18歳の若い前田利常が当主となっていましたが、徳川家康は警戒していました。

徳川家康は前田利常に、昔 共に戦ってきた前田利家の面影を観て、油断できない相手と看做していたのです。

そこで懐刀の藤堂高虎に命じて、以前から計画していた本多政重を若い前田利常の補佐役として送り込むことを命じたのです。

 

慶長18年(1613)に徳川幕府が加賀藩に新川3郡の返還を要求してきます。

新川郡は佐々成政が肥後にとばされた後、豊臣秀吉直轄領となり、文禄4年(1595)に前田利家に与えられました。

しかし、この譲渡を証明する書状が存在しなかった為、徳川幕府はこれを返還させようとしたのです。

多分この時期に、本多政重の妻 阿虎は加賀に居る夫の許に向かいます。

1人で向かったのではなく、本多政重を慕う多くの上杉家・直江家の家臣が上杉本家の了解の許、本多政重に仕え支援する為、家臣だけで100名を超える大所帯が、前田家へと移籍を行なったのです。

これにより、上杉家・直江家は阿虎を媒介として、本多家・前田家との関係を維持し、阿虎の叔父にあたる与板衆筆頭の篠井泰信(直江兼続の妹を娶る)も同行したことで、直江兼続との連絡も良くなっていき、本多政重も旧知の連戦練磨の家臣団に支えられていくのです。

このような背景に支えられ、本多政重は加賀と江戸を何度も往復して幕府諮問団と渡り合い、これを撤回させます。

その功績により加増され、5万石の家臣となります。

その後徳川幕府より、上杉家・直江家から多くの家臣が移籍したのは幕府に反逆するのではと、疑いが掛けられ、詰問がありますが、本多政重は、再度江戸と加賀を幾度も往復しながら、米沢藩の財政緩和と浪人輩出による政治不安定を避ける等の理由を付けて乗り切ります。

この功績により更に2万石加増され、7万石の大名となります。

 

藤堂高虎がキーワードとして登場しますが、彼もまた主君を次々と変えていった波乱万丈の人物ですが、遺言で「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」と、人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて、息子に文武両道に励むように求めています。

このように波乱万丈の人生を経験した彼らに共通する資質や目指す所は似ているのですね。

 

慶長19年(1614)大阪冬の陣が始まり、従軍します。

この時は、真田幸村にコテンパンにやられ敗北します、詳細は本多忠勝の所で詳しく述べていますので、読み返してください。

その為、翌年の大阪夏の陣では一番手ではなく三番手に位置され、目立った活躍はしません。

寛永4年(1627)嫡子の政次が亡くなり、それを追うように阿虎も亡くなります。

政次の子の朝政は居ましたが、本多政重の直接の子では無い為、同年 西洞院時直の娘と再婚し、長男の政長を儲け、この系統が今日の加賀本多家の当主本多政光氏につながるのです。

次男の政逐は早世し、三男の政朝が叔父である下野榎本藩主 本多忠純に養子入りし、本多大隈守家を継ぎます。

阿虎の血を引継ぐ政次の息子の朝政は直江兼続の実家である樋口家に預けられ政長に仕え、その嫡男の定政は青地家に養子入りします。

 

ここで、本多政重の辞世の句を紹介いたします。

一般には「一たつと」で始まる句になっていますが、掛け軸のものを観ますと「一たちと うちつくる 下に なにもなし 思えばおもふ 夢また夢」となっていますので、私なりの解釈をいたします。

「一太刀を討つ下には有益なものは何も無い、思い返せば全ては夢であったのか」と理解します。

彼は父親である本多正信を幼少の頃より、周りから武芸の実力が無いと揶揄され、それを恥じていました。

その為、彼とは違うという事を自分自身に言い聞かせる為に、がむしゃらに武芸を磨き続け、今で言う父親に強烈に歯向かっている10代の反抗期に武芸を磨いたが故に人を殺めてしまいます。

その時に、戦場では精一杯戦った証である全身に残る刀傷を持つ父親が、武芸に優れてはいないが、何も知らない他人から揶揄されるいわれは無いと、自然に父親を庇護する自分を発見し、父親も保身を第一に考える自分を恥じ、両者の心の関係は改善されていくのです。

その後 大きなうねりの中、自分の信念に基づきながら転々と主君が変っていきますが、その中で次第に父親である本多正信の信念とその実践が自分の道標と理解していくのです。

武力では何も解決はしない、己の保身を考えず共に共存できる話し合いや人を信じる心が大切と深く理解していればこそ詠える句であると私は信じています。

時代を超えてはいますが、彼の事を調べれば調べるほど彼に惚れ込んでいく自分に気づきました。

彼のような人と思いっきりビジネスができたなら、どんなにか楽しく充実した人生が送れるだろうかと思っています。

 

 

<本多正重>

天正3年(1575)織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が、設楽ヶ原で戦った長篠の戦いが発生します。

この戦いでは、日本の戦国史上初めて大量の鉄砲が使われた戦でもありました。

一般には3,000丁以上とも言われていますが、実際は1,500から2,000丁レベルだったと推測されます。

両者間を流れる小川を掘とすべく両岸を急斜面に加工して、その奥に三重の馬防柵付の土塁を配置した上で、武田軍に銃撃を加え、殲滅していく様を徳川家康は目前で観る事になります。

織田信長軍の主要な鉄砲指南役の滝川一益は、百発百中の鉄砲の名人であるだけでなく、鉄砲の製造技術も習得していました。

本多正重は豪胆な槍の名手で認められていましたが、徳川家康に対しても遠慮なく物言いをしまくるので、徳川家康は疎んでいましたが、忠誠心は強いので、間違いなく鉄砲関係の製造技術や操作技術・運用技術を学ばせるために送り込んだと観られます。

 

天正8年(1580)、織田信長と石山本願寺の11年に及ぶ争いが終結しますが、加賀本願寺は未だ戦いますので、柴田勝家が掃討します。

翌年の天正9年(1581)上杉謙信が亡くなり、能登地区は織田信長の勢力圏となりますが、上杉家の影響を受けた争いが絶えず、その鎮圧安定のために前田利家が加賀23万石の領主となります。

どうもこの時期に本多正重の兄 本多正信は匿われていた石山本願寺から徳川家康への帰参を果たしたと思われます。

北陸の地において、兄弟で話し合う機会は多かったと思われますので、徳川家康への帰参に関し、大久保氏の徳川家康への執成し以外に、本多正重の口添えもあったと考えられます。

本多正重は、これを機に、同じ槍使いでも有名であり、表裏の無い一本気な性格の前田利家を気に入り、仕えるのです。

 

天正11年(1583)、ポスト織田信長を巡って、柴田勝家と羽柴秀吉が賤ヶ岳で戦います。

一般に、この戦いで、柴田勢の前田利家が途中で戦闘放棄して退却したので負けたとされています。

しかし、前田軍の2千とも5千とも言われる兵力に真夜中の戦闘で多数の死者が出ており、府中城に着いた兵は僅かしかいませんでした。

これは、至近距離での白兵戦が全線に沿って発生した証拠で、意図的に引きあげたならば、白兵戦になる前に、闇夜を利用してほぼ全数が帰った筈です。

前田軍の退却以前に、佐久間盛政の8千の兵、柴田勝家の1万の兵、柴田勝政の3千の兵が秀吉軍の攻撃に晒され、散り散りに逃亡を始め、その敗残兵の逃亡と秀吉軍の攻撃を受けて、前田軍も敗走したというのが実情ではないかと思います。

総勢3万とも言われる兵力から前田軍の兵が、引き揚げたところで、勝敗に大差は無いのです。

これ以降、降伏して羽柴秀吉側に付きます。

天正12年(1584)、小牧・長久手で羽柴秀吉と織田信雄・家康が戦ったのに呼応して、佐々成政は北陸の末森城を攻撃しますが、前田利家はこれを破り加越能三ヶ国の領主となり、羽柴秀吉を支えることになります。

間違いなく、親密に成っていく前田利家と羽柴秀吉についての関係を、本多正重は徳川家康へ報告していたものと思われます。

 

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により、関東の北部に位置する会津は伊達家の領地でしたが、伊達政宗を陸奥国岩手山城に追いやり、蒲生氏郷を送り込みます。

豊臣秀吉は織田信長が器量人と認めていた蒲生氏郷をかねてより警戒していたので、上方から遠ざけ、会津に配置することで、関東の徳川家康と仙台の伊達政宗を牽制する大きな抑えとさせたのでした。

特に、家老職の蒲生郷安は、豊臣秀吉・石田三成・上杉景勝と通じており、徳川家康にとってはその内部情報や奥州の情報が必要でした。

その為、武芸に優れあらゆる戦場で活躍してその名を周知されていた本多正重ならば仕官が成功すると考え、送り込むことに成功するのです。

 

しかし、文禄4年(1595)に蒲生氏郷が死去すると蒲生騒動が発生します。

家老職の蒲生郷安は、歳若い蒲生秀行の補佐役として政務を独占します。

その為、蒲生郷可・蒲生郷成等との間で内部対立が激しくなりますが、蒲生郷安の勢力が強く、豊臣秀吉・石田三成・上杉景勝の思惑通りに進むと観、役目は終了と考え、慶長元年(1596)に本多正重は徳川家康の許に戻ります。

蒲生騒動の結末は、蒲生郷安が反対派の亘理八右衛門を斬殺したことを発端に一触即発の状態となり、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が調停し、蒲生郷安は微罪とし、当主の蒲生秀行は会津92万石から宇都宮12万石に大減封され、代わりに上杉景勝が入ってくるのです。

関ヶ原の戦いでは、検使を務め、その功が認められ、慶長7年(1602)に近江国坂田郡1,000石を与えられ、慶長19年(1614)の大阪の陣では徳川秀忠の参謀として活躍し、元和2年(1616)に下総国相馬郡舟戸1万石の大名となりますが、翌年死亡します。

長男の正氏は豊臣秀次の切腹に殉死し、舟戸藩は1代で消滅してしまいます。

 

彼が歩んだ道は、彼の甥の本多政重(正に呼び方は同じです)が、引継ぐ形となります。

本多正重は、多分 疎まれていた窮屈な徳川家内から離れて、仕事ができる環境をむしろ進んで享受したと思いますが、本多政重は、彼の誠実な性格故に大きな潮流に翻弄され、より多くの苦難の道を歩んでいったのだと思います。

このような人生を積極的には望まなかった二人ですが、そこには本多正信の戦下手による誹謗中傷を周りから受けていた事が大きな原因となっていると考えられます。

しかしそれ故に、武芸に励みながら様々な人と接する中で、人の悲哀・阿鼻叫喚を充分に考えられる徳のある人間に成長していったと信じます。

本多正信・本多正重・本多政重の固く結ばれた情報連絡網が、徳川政権安定まで有効に機能していたと考え、この歴史ドラマを楽しんで頂けたなら幸いです。