「飛騨高山の歴史」


自家用車で富山から41号線沿いに真直ぐに南下して約時間のドライブで高山に着きますが、鉄道の本数が少ない為と、車で行けば直ぐに着けるという思いからか、過去回程度しか訪れたことが無いことを運転しながら思い出しました。

山々が重なり合う狭小な平野を縫い走りながら、この土地での稲作は大変であっただろうと、歴史を遡りながら想いを寄せていくことにします。

大化の改新後 律令制となり、お米や絹を国家に納めなければならないのですが、飛騨高山では稲作の作付面積が十分に取れず、ほぼ自給自足分しか採れませんし、山間部なので霧等が発生し易く、絹の原料である蚕の飼育にもあまり向いてもいません。

しかし厳しい気候の為 ひのき系の良質な樹木が多く、それを加工する匠の大工が多く居た為、調・庸の代りに、労役を課していたのです。

その労役は300日以上/1年という非常に重いものでしたが、都の寺院建設等に多用され飛騨高山の大工の名声を全国に馳せ、現代でもその派生系である春慶塗、飛騨高山の家具作りに受け継がれています。

平安時代の末頃になりますと、平時輔が三仏寺城(現在の三福寺町)を居城にして治め、その後平家領として代々受け継いでいましたが、代目平景家が勤めで京に居る間の治承年(1181)に、木曽義仲が平家討伐に用意する千騎の軍馬を木曽のみでは調達できず、軍馬調達の為に長峰峠を越えて攻めて落城させ、その後 城長茂(越後平家)の軍勢万と横田河原で戦い勝利します。

この頃の馬は現在のサラブレッド系の交配された大型のものでは無く、木曽馬に代表される小型のがっしりとした馬で、真に過去の屏風や巻物に描かれている通りの大きさ容姿のものなのです。

鎌倉時代の記録は少なく良く分かりませんが、室町時代になりますと、国司の姉小路氏が北飛騨、守護の京極氏が南飛騨・益田を支配していましたが、応永18年(1411)に足利義持の命により京極高光が飛騨の姉小路伊綱を討ち、これにより古川盆地支配をしていた姉小路家は、小島城の小島家、向小島城の小鷹利家、古河城の古河家の三つに分裂し、飛騨南部大野・益田郡に軍功を挙げた京極氏被官の三木氏が派遣され、互いに争うことになります。

このような中、京極氏重臣の多賀出雲守の一族である高山外記が天神山(現在の城山)に城を築きます。

永禄元年(1558)三木自綱は広瀬郷の豪族広瀬氏と組んで、高山外記と三枝郷の豪族山田紀伊守を滅ぼします。

永禄年間(1558〜1570)、元亀年間(1570〜1573)、天正年間(1573〜)にかけては、上杉家、武田家の勢力争いの狭間に置かれることになります。

上杉氏は三木氏と同盟し、武田氏は北飛騨の江馬氏と同盟を結び、三木氏を挟み撃ちにしようと企みます。

永禄2年(1559)に三木良頼は、長男の三木自綱(後の姉小路頼綱)を国司にし、永禄5年(1562)に自分の名前を元祖国司であった姉小路の姓を採った姉小路嗣頼と改め、従三位権中納言となりますが、永禄7年(1564)には武田家家臣の山県昌景が飛騨に侵入して、三木氏は武田信玄の軍門に降ります。

しかし、三木氏は独自路線を諦めず、長男の三木自綱に美濃で勢力を拡大していた斎藤道三の娘を正室に迎え、斎藤氏や織田信長とも関係を深めていくことになります。

武田信玄や上杉謙信亡き後、織田信長と同盟を結んでいた三木氏の勢力は更に拡大していき、天正7年(1579)には松倉城を築城し、ここを本拠とします。

その後、織田信長が本能寺の変で討たれたと知った江馬輝盛や地方豪族が攻めてきましたが、これらを残らず滅ぼし、天正11年(1583)に三木氏は飛騨の統一を遂げ、織田信長亡き後は、豊臣秀吉のライバル佐々成政と同盟を結びます。

豊臣秀吉は天正13年(1585)佐々成政を攻める際、越前大野城主であった金森長近に飛騨攻略を命じます。  

高山陣屋で関係が深い金森長近が出てきましたので、長近について少し説明をしておきましょう。

長近は、土岐定頼の子である大畑七右衛門定近の次男であり、大畑七右衛門定近は近江国に移り住んで姓を金森と改めています。

長近の幼名は五郎八可近(ごろうありちか)でしたが、18歳の時期に織田家に仕え当時8歳の吉法師(信長)付となりその後、織田家の最強軍団の母衣衆(ほろしゅう:騎馬する時に背中に大きな風船状の布袋を担ぎ、最強の家臣であることを示します。)20人の中に位置しており、織田信長の長を与えられ五郎八長近と改めています。

天正3年(1575)に織田信長は本願寺の門徒領国となっていた越前国で、顕如の人事に反対する門徒が騒ぎ出した機会を捉え、一気に越前国へ侵攻しました。

その際に長近は信長の命により、大野地区で徹底的に一向一揆宗徒を抹殺して大きな手柄を立て、大野郡の所領を与えられます。この時長近は老齢の52歳でした。

長近は信長と始終行動を共にしていたので、千利休等の文化人や経済人との交流も多く、信長の付人であった性もあり、非常に思慮深く謙虚な人柄であったようです。

天正4年(1576)に、亀山の上に大野城の築城をしますが、外堀や内堀を巡らし、石垣を組み天守閣を設けるという山城には無い政治経済文化の中心としての威厳を表すことをも目的とするものでした。

城を中心として、武家屋敷、商家、寺町を順に碁盤目状に配した道筋沿いに設け、京都を模したものとなっており、後の高山城下建設も同じように行われました。

長男の金森長則は本能寺の変(1582)で織田信長の長男織田信忠と共に討ち死にした為、重臣の長屋景重の子息可重を養子に貰い受け、後に飛騨高山の領地を相続させますが、その後次男の長光が出生した為、長光には上有知・河内国金田の領地を相続させます。

横道に逸れましたので、秀吉の飛騨攻略に戻りましょう。金森長近は高山の北から攻め、養子の金森可重(中部7県計量協議会の懇親会の席で、「めでたい」の祝い唄が披露され、御膳カバー紙の説明には金森可重の下屋敷を完成させた際、棟梁が披露したと書かれており、お酒を注ぎ回るのはこの後との説明に、私もこの唄が終わってからお酒を注ぎに回りました)は、南から三木氏の諸城を攻略し、松倉城の落城と共に三木氏は滅びますが、地方豪族武士の反乱があり、これを鎮圧した天正14年(1586)に飛騨国3万3千石の国主となりました。

その後、関が原の戦いでは徳川側について戦い、美濃の佐藤方正(西軍:長近は叔父)の所領であった美濃上有知(美濃市)1万8千石と河内国金田(大阪府)3千石を貰い受けます。

居城は漆垣内町に在った鍋山城でしたが、越前の大野城下のように政治・文化・商業を統合して発展させる構想を持っていたため、地理的に大野に似た天神山に高山城を設けその周りに城下町を構築することになります。

天正16年(1588)から建築を初め、完成するのは慶長8年(1603)までの16年間の長期に渡り、越前の大野城を更にレベルアップした立派な城となったようです。

京都に習い東山に寺院群を建築し、一揆対策として門徒の多かった照蓮寺を城の向かいに監視できるように配置し、茶道を初めとする様々な文化奨励(私見ですが、源流は京都の祇園祭であり、長近が京都文化に親しんでいた為であり、高山の山王祭りもこの頃の施策の一部で、一揆から注意を逸らす対策と感じます。)

そう言えば、高山では山車のことを屋台と呼びますが、これは1700年代1800年代と時代が移るに連れ、商業の発展による特定商人の寄進が大きく関与していった結果と思われ、商業振興、鉱山開発を積極的に行い、石高のみに頼る経済構造からの脱却を図り、繁栄していきます。

その後、金森家は6代107年続きますが、元禄5年(1692)金森頼時の代に出羽国上山藩に移封、幕府の天領となり、前田藩が高山城を解体し、その一部を城下町の高山陣屋に持って行き組立てをしたのです。

理由には様々な諸説がありますが、この頃は5代将軍徳川綱吉の治世であり、大火や天災の影響で幕府の支出も多くなり、また幕府天領での金鉱物の産出も減少し、幕府の財政は枯渇しつつありました。

この様な中、商業・林業・鉱業が盛んで発展している地域を幕府が何かの理由をつけて召し上げ、財源にしていったと考えるのが自然な解釈と感じます。

「生類憐みの令」で有名な綱吉ですが、これも実際は改易等の理由を、無理やり付ける方策であったと観ますと、綱吉はポン助どころか財政再建に邁進する鬼のような改革者という印象が浮かび上がってきます。

ついでですが、この頃までは、犬を食するのは隣の韓国でもそうなのですが、日本でも普通に行われており、これ以降はその風習が廃れていったと観られます。

実際、綱吉は将軍職についている間に財政再建として、諸国大名2百数十家の中の46家を改易・減封しており、その理由も些細なものが殆どであり、金森家もその中の1家であったのです。

 

ここで、先程説明しました山車については、富山にも複数の市町に山車を所有している所がある事に気づきましたので、その中から、おわら風の盆で有名な八尾町の曳山と盆踊りの関係について、お話させていただく事にします。

寛保元年(1741)頃、花山車を引き廻し始めたのが最初と言われています。

曳山は神社が関連した祭事に関するもので、普通は神社を目指し、神が宿る拠所として練り歩くだけのもので、これに対して、盆踊りは仏教に関したもので御先祖様と出会い踊るというのが大きな相違点で、互いに排斥せず別個に発展しているのが面白いところで、殆どの地域でも同様な現象が観られます。

また、おわら風の盆の盆踊りでは、見えるか見えないかに目深く被った編笠に、艶のあるうなじを出した年頃の女性が艶やかな仕草の動作を行いますが、これは適齢期の男女のお見合いの場を芸者風により精錬された動作に仕上げたからです。

高山陣屋を見学しましたが、その中ではやはり鉱山資源開発の絵コンテが飾られており、裏づけになったと感じました。

また、代官が農民の自給用の田までをだまして検地を行うというやり方の説明が有り、餓死させてまで年貢を増やす強引な財政再建のやり方が生々しく紹介され、反抗者については容赦なく斬首され、その粗末な所持品が展示されていました。

また、明治維新後 富国強兵のためか、知事に赴任した梅村速水が日用品の専売制や各種商売を許可制にし、税金徴収を図った為、梅村騒動という大きな暴動打ちこわしに発展し、罷免されたとの説明がされており、金森家以降の搾取されるのみの庶民の悲哀が強く伝わってきて、金森家支配での所領政治が成功していたものであったとの思いがしました。

実は、高山陣屋の見学はメインでは無く、トランブルーというパン屋さんで、世界一美味しいパンを買うのが主要な目的でした。この店のシェフ成瀬正氏は、クーブデュモンド(世界のパン世界一を決める大会)のクロワッサン部門で世界第3位となり、その後のクーブデュモンド日本代表の監督として活躍し、総合で見事世界一を獲得した、そのジャンルでは神様みたいなシェフなのです。

9時には店の前に行き、順番札を引き開店までの30分を待ち入店しましたが、お目当てのバゲットは売り切れ、クロワッサンは12時頃に出来上がるとのことで、バゲットは諦め、クロワッサンに絞り、その間 高山陣屋を見学したのです。

観光案内には一言も紹介されていませんが、宣伝無しで県外ナンバーの車がズラリと駐車場に並んでいるのを観ますと、宣伝でもしたら収拾がつかなくなるくらいの車で溢れかえるだろうと、勝手に解釈しつつ、12時前に再度訪問し、見事 クロワッサン3個(人気が有るので一人3個までなのです)と様々なパンを購入して帰路につきました。

味の方は言うまでも無く世界一の味で、パンを買いに来るだけでも値する高山となりました。