「元寇と日本刀の真実」

 

読者の皆様は、元寇という言葉を中学校の授業で学んだ記憶があると思います。

海の向こうの元という国が、侵略を目的として、日本に襲ってきたことを指しますが、それを知った時に、それ以前はこういうことは無かったのかという疑問を持たれた方も居られることと思います。

当時は脆弱な構造の船が多く、遣隋使・遣唐使の例を観ても分かる様に、海難が多く日本海を越えるのは大変な時代でした。

頑丈な渡航用の大型船の大量建造技術を持ち、資金が豊潤な組織でしか、侵略するのは困難で、それを満たす国は近隣では中国・高麗しかありませんでした。

私が知る限りでの大規模な日本への侵略記録にあるのは、平安時代の寛仁3年(1019)4月初旬に刀伊の入寇という事件があります。

これは、当時満州に住んでいた女真族を中心とした暴徒達で、後に高麗側から拉致された対馬・壱岐の日本人数百人を返送されているので、高麗政府が主導したものではないと感じます。

海賊船50隻程度(3,000名程度)が対馬に上陸して略奪・放火・強姦・殺人・財産略奪を行い、奴隷として使える島民以外は全て殺戮し、壱岐へと向かいます。

壱岐でも対馬と同様の事がなされ、国司であった壱岐守藤原理忠は、百数十人の部隊を率いて討伐に向かいますが、3,000人を相手にし、瞬く間に壊滅してしまいます。

その後、暴徒達は壱岐嶋分寺を襲いますが、常覚という住職の下、僧侶・住民の混成部隊で果敢に戦います。

常覚は事の次第を大宰府に報告するために島を脱出しますが、壱岐嶋分寺に立て籠もって応戦していた僧侶・住民達は皆殺しにされてしまいます。

その後、暴徒達は北九州の筑前国怡土に上陸し、4月8日から4月12日にかけて海岸線沿いに荒らし回り、博多辺りで宿営します。

大宰権師の藤原隆家は、九州各地の豪族を集め、弓矢を中心とする攻撃をかけますが、この時分にも波風が激しくなり、暴徒達は船に乗り急いで退却します。

防護のための冑鎧はほぼ無く、素早い行動ができる軽装での刀剣・弓を組み合せた、短時間での狼藉については、日本の武士達には馴染みが無いもので、対応に苦慮したことが伺えます。

武器の主力となる弓矢についてですが、大陸では狩猟が中心となっており、鏃に毒を塗って射るというのが一般的であり、毒を塗るという習慣が無い日本では受け入れ難い事だったかも知れません。

また、あらゆる物の収奪と根絶やしというのが大陸の基本方針で、それを端的に示した事件でしたが、この事を教訓として学ばなかった為、後の元寇で苦戦することにもなります。

記録として残っているだけでも死者350名以上、奴隷として拉致された者1,300名、牛馬や犬は全て喰ったようです。

平和ボケの朝廷・貴族に衝撃を与えた事件ではありましたが、対馬・壱岐のかろうじて生き残った人達への救済は無く、防衛のための施策もされないままに、復讐の為の倭寇発生の種となっていきます。

倭寇については、その後 高麗及び中国南東海岸を長期に渡り荒らしまわり、嘉慶2年(1389)には、高麗は300隻の軍用船で倭寇の拠点であった対馬を攻撃して、百数十人の高麗捕虜を救出する程、対応に苦慮します。

その後も倭寇に悩まされ続け、元中9年(1392)に高麗は李成桂に滅ぼされてしまいますが、その遠因の一部となったのが元寇です。

15世紀からは倭寇の構成員の構造が、倭人から朝鮮賎民の割合が高く8割以上となり、本質的な組織変更と成り、名称のみが1人歩きしていきます。

 

元の国王フビライはマルコポーロからジパングは黄金の国と聞かされており、文永2年(1265)高麗人の官吏 趙彝が日本との通交を進言したことがきっかけとなり、日本征服に目覚めます。

文永3年(1266)日本宛の大蒙古國皇帝奉書を作成し、正使ヒズル等使節団を高麗経由で日本へ使わすことにしました。

しかし、高麗王の元宗等は、軍事費の負担を強いられると踏んで、日本へ行っても得なことは何も無いと使節団を帰してしまいました。

報告を受けたフビライは烈火のごとく怒り、高麗から使節団を送るよう命令します。

気が進まぬ高麗王元宗はそれでも側近の潘阜等を文永5年(1268)の年初めに使節団として日本へ送ります。

大宰府に着いた使節団は大蒙古國皇帝奉書と高麗国王書状を提出し、書状のみが鎌倉へ送られます。

このような時期に北条時宗が執権に就任します。

外交関連は朝廷が受け持っていたので、幕府は後嵯峨上皇へ国書を回します。

鎌倉幕府は南宋より蒙古の状況等をある程度、渡来している禅僧等から情報を取得していたので、朝廷へもアドバイスを行っていました。

しかし、この深刻な事態に朝廷は腹を括った決断はできず、連日会議は踊ります。

何時まで経っても返答が無いので、7ヵ月後に使節団は呆れ果てて帰国します。

フビライは苛立ち、使節団の帰国を待つまでも無く、侵略の為の船舶1,000隻の建造を高麗国へ同年5月に命じています。

このような中、南宋の攻略が優先課題となり、主要な拠点である襄陽と樊城で激戦が繰広げられ始め、軍備や資金を集中する必要性が出てきました。

文永6年(1269)2月、根気のあるフビライは、正使ヒズルを筆頭に75名の大使節団を日本へ派遣し、対馬に上陸しますが、日本側は本国へ上陸することを許可しなかった為、頭にきた使節団は暴挙を働き、塔二郎と弥二郎の二人を捕らえて帰還します。

フビライはこの成果に喜び、捕虜二人に宝物等の下賜や歓待を行い懐柔します。

同年9月懐柔した捕虜2名を日本へ護送する名目で高麗国の金有成等の使節団が大宰府に到着し、今度はモンゴル帝国の中央官庁である中書省からの書類と高麗国書を提出します。

朝廷側は服従に拒否の返書を作成しますが、鎌倉幕府は返書を渡さない姿勢を伝えた為、使節団は返書を得ず、帰国します。

このように牛歩戦術で意思表明をしない中、文永8年(1271)9月に今度は、高麗国内で反乱を起こしていた三別抄という武器関連の官庁組織から軍事援助を乞う使者がやってきます。

するとその後を追うように、女真人の趙良弼を筆頭とした総勢100名を超える大使節団が国書を携え、博多今津に上陸します。

今回は高麗沿岸地域に数万の軍勢を待機させ、対応の次第では直ぐにでも侵攻できる準備を伴ったものでした。

使節団は、日本国に居る南宋人や三別抄等の妨害を受けながらも大宰府に到着しますが、鎌倉への訪問は拒否されたので、国書を渡し、11月までに返事がない場合は侵攻を開始すると伝えます。

朝廷では度重なる使節団への返書草案を菅原長成に作成させていましたが、取り敢えず使節団を送ることに決定し、趙良弼の使節団と共に文永9年(1272)1月に、総勢12名の日本使節団は元の首都大都を訪れます。

しかし、日本使節団はスパイと看做されたため、フビライには謁見できませんでした。

同年4月に使節団は高麗を通り、日本へ帰国しますが、その際に沿岸地域に多数の高麗兵が駐屯しているのを観ます。

さすがにまずいと観た元の安童将軍は使節団に多くの高麗兵が駐屯している理由を三別抄対応と説明しています。

同年12月頃、再度 趙良弼は、三別抄の妨害を受けながらも使節として日本へ訪問します。

彼はこれまでの日本国訪問で得た、自然環境や軍事組織・練度等を熟知していたので、侵攻となると多大な犠牲を払うものになると予感していた所があり、なんとしてでも何らかの歩み寄りが欲しかったのです。

日本側もこれまでの経緯から返書程度はしなければ、亡国の窮みになると思っていたようですが、元と戦っていた南宋は日本が元の服従下に入ると困るので、瓊林という禅僧を日本に遣わし、ロビー活動を行った為、趙良弼は大宰府から京都にも行けず、返事が得られないまま帰国します。

フビライは当然 烈火のごとく怒り、日本侵攻とわめき散らしますが、趙良弼はその無益さを説いた為、その場での短絡的な決定は避けられました。

まさにそのような中、文永10年(1273)南宋との5年に及ぶ襄陽と樊城での戦いに元はようやく勝利し、三別抄の反乱も鎮圧します。

余程 日本が恋しいのか、フビライは再び日本侵攻の号令をかけます。

文永11年(1274)1月に高句麗に渡来船300隻の建造を命じ、同年6月には建造を終えています。

文永11年(1274)10月3日に総司令官忽敦(クドゥン:モンゴル人)以下 副司令官の劉復亨(漢人)と洪茶丘(高麗人)率いる総兵力4万を900隻の軍船に分乗させて合浦(現在の馬山)から出航させます。

フビライは軍船900隻を高麗に建造させますが、財政負担もさるもののタイトな工期の為、得意の手抜き建造や川船の徴収で数を揃え、これが後に致命的な結果となります。

ここで注目すべきは、高麗軍約1万の他、平安時代末期に刀伊の入寇で日本に攻め込んで傍若無人の振る舞いを行った女真人の部隊が水先案内で参加していることです。

当然 侵略経路は同様となります。

10月5日には対馬の小茂田浜に上陸します。

対馬の守護代であった宗資国は、事情を聞きに向かいますが、紳士的な対応を取る筈が無く、攻撃を仕掛けてきて上陸をし始めます。

その為、宗資国は手勢80人程度で弓矢での反撃を開始し勇敢に戦いますが、相手は数千人なので、瞬く間に壊滅します。

小太郎と兵衛次郎が元の侵略を伝える為、対馬を脱出し、博多へ向かいます。

防衛部隊壊滅後、対馬の島民の青年男女は奴隷として摂取され、それ以外は惨殺され、若い女性は強姦後、手の真ん中に穴を空けられそれに縄を通して舷側に吊るして攻撃されないように処置を行っています。

対馬の居住者はこれにより、かなりの人数が殺され、捕獲されます。

対馬での傍若無人な振る舞いを10日間に渡り、行った後 壱岐に向けて出港します。

対馬の防衛部隊が全滅したという報を受けた壱岐守護の平景隆は、筑前守護少弐資能に援軍を依頼しますが、間に合う筈がありません。

日本では個々の戦闘で勝利した場合、倒した敵将の首を提示し評価を受けるか、死守・玉砕・自害という線がスタンダードであり、手勢は100名程度だったので、全滅は時間の問題でした。

これに対して元側は、集団での軽装による機敏な戦闘方法で、情勢が不利になれば即時に退却し、再起の為に兵力を温存し、指揮者が責任を取るというスタイルでした。

武器は短刀、短い矢(毒が塗ってある)、長槍と「てつはう」という空洞の鋳鉄や陶器の中に火薬を詰めて導火線で破裂させる物を使用しており、日本の武士が始めて火薬というものと遭遇したのです。

それ自体で殺戮するというよりは大きな音で馬を驚かせ、混乱させるのが目的の物で、退却時に迅速な追撃を阻む為によく使用されたようです。

平景隆軍も瞬く間に壊滅状態となり、自害する前に宗三郎に元の来襲を大宰府へ連絡するように言いつけ、同伴として娘の姫御前も逃がそうとしますが、毒矢に当たり姫は自害してしまいます。

その後元は、壱岐を占領し、多くの島民を選別して奴隷とし、それ以外は惨殺した後、九州の肥前海岸へと向かいます。

10月16日に肥前の松浦党領地である平戸島、鷹島、能古島及び松浦郡を攻撃し、壊滅させます。

10月20日、博多湾の早良郡百道原に元軍の主力部隊が上陸します。

上陸した部隊は直ぐに東方の赤坂へ向かい、これを占領し布陣します。

その頃、大宰府では元の襲来を京都・鎌倉へ伝えると共に、九州各地の御家人が大宰府に集結しつつありました。

刀伊の入寇での教訓を踏まえなかった幕府は九州南部の御家人が迅速に集結できるように道路や橋の整備を行わなかったので、防衛準備の時間が無駄に経過することになりました。

とりあえず集結できた 戸澤氏、菊池氏、紀伊一類、原田氏、臼杵氏、矢野氏、竹崎氏、兒玉氏他、神社寺の司までが参加して、反撃開始の準備をします。

当初 騎馬戦に適した博多の息の浜という所で元軍を迎撃しようと図りますが、肥後御家人の菊池武房の軍勢100余騎が赤坂に布陣している元軍に先駆け攻撃をかけてしまい、目論みは崩れます。

元軍は小高い山のある麁原へと敗走し、その後 鳥飼潟への移動途中に追撃する日本の武士団と衝突戦闘となり、上陸地点の百道原へと敗走します。

追撃する日本武士団は、百道原で決戦を挑みます。

此処では、日本武士団総大将の少弐景資や大友頼泰も参加する一大合戦が展開され、元の副司令官 劉復亨も負傷してしまいます。

戦いは日本側の勝利となりますが、元軍はその日のうちに上陸地点より船へと引揚げ、翌朝には博多湾から元の軍船が消えていたと、通説では説明されていますが、本格的な戦闘で1度負けて退却するとは思えず、1週間程度は小競り合いを続け矢等が無くなった為、引き上げたのではないかと思慮します。

この侵略で実行部隊の主力はフビライに征服された高麗兵であり、蒙古兵は数十人程度しか居なかったとされています。

その為、フビライのみが執拗に急かせた作戦計画なので、元々やる気が無い上に、戦う相手が多勢に無勢での死が保証されているにもかかわらず、動けなくなるまで果敢に戦う様を観て恐怖を感じ、それに指揮系統の混乱や充分でない食料・武器(特に矢)の使い果たしによる影響で、それ以上の戦闘継続は不可能だったのです。

彼らが北九州に攻めてきたのは現在の暦に直すと11月26日頃なので、神風(台風)が吹いて追い払ったわけではありません。

元側の記録によれば200余隻の沈没と3万人の死亡とあるので、対馬辺りから朝鮮半島に向かう途中で暴風雨に遭遇したものと推測できます。

急造(4ヶ月で建造)の手抜き船や川船だったので、ひとたまりも無かったのでしょう。

難破を免れた船は再度 対馬と壱岐に避難し、そこで船の修理等をしますが、隠れていて生き残った住民に悲劇が繰り返されることになります。

洞窟の奥に逃げ隠れて生存していた少年少女200余名を捕らえて奴隷として高句麗の王に献上するのです。

対馬・壱岐の人達は皆悲惨な過去を背負っているのです。

翌年の建治元年(1275)懲りないフビライは、日本を服従させる為、使者を派遣します。

正使の杜世忠(モンゴル人)を含む5名の構成で、長門国の室津に来航しますが、鎌倉幕府は江ノ島近くの龍ノ口刑場で斬首してしまいます。

これを受けてフビライは、日本侵攻の準備として、同年10月に船の建造や矢の生産を高麗に命じますが、翌年の建治2年(1276)南宋との戦争が最終段階へと進むにつれ、日本侵攻との両面作戦は負担が大きすぎるので南宋攻略に全力を注ぎます。

同年1月南宋の皇帝 恭帝は元に降伏し、南宋は滅亡します。

降伏した南宋の旧臣達は保身の為、日本侵攻を提言しますが、軍参謀の耶津希亮の国力回復を待ってから行うべしとの助言に従い、日本侵攻を見合わせます。

 鎌倉幕府は、日本を占領するまでフビライは諦めないと読み、博多湾全域に20Kmに及ぶ石塁を築き上げて防衛体制を固めると共に、積極的防衛として、高麗への出兵計画を立てます。

建治2年(1276)3月には高麗出兵を宣言し、少弐経資が鎮西諸国へ動員を命令して、博多へ軍勢・船舶を集結させます。

船舶の漕ぎ手を鎮西諸国や中国地方からも召集させ、名簿作成までしていましたが、石塁構築に多大な費用と人員を要した上に、兵船の不足の為、高麗への出兵計画は中止されます。

その代り幕府は、元の再侵略に備える為に異国警固番役を制定して、北九州沿岸の警備を固めます。

1年を、3ヶ月づつの4交代で、薩摩・日向・大隈のグループ、筑前・肥後のグループ、肥前・豊前のグループ、筑後・豊後のグループに警固を課したのです。

 

案の定、弘安2年(1279)まだ懲りないフビライは、日本侵攻を計画します。

南宋の旧臣 范文虎は、再度日本へ使者を遣わせてはと提案し、フビライは4年前に使者が斬首された事も忘れ、周福を元使として使節団を送ります。

今回は日本と、かつては友好関係にあった南宋の旧臣の口利きで、元への服従を勧める内容でしたが、鎌倉へ送るまでもなく、博多にて斬首刑となります。

これを受けてクビライは、日本侵攻の準備に取り掛かります。

同じ頃 元寇襲来の準備の為、鎌倉北条氏一族であった信濃国塩田荘守護塩田義政の御家人であった海野小太郎幸継は、塩田氏に従い佐賀あたりに布陣して生活し、弘安の役で戦うことになります。

一族ではそのまま現地に土着する者も多く居ましたが、海野小太郎幸継はその後、信濃に戻り、海野幸春―海野幸重―幸秀と続き、海野幸秀が真田を名乗るようになります。

 

最初の侵攻から7年後の弘安4年(1281)6月初旬にフビライは再度、日本への侵攻を始めます。

しかし、鎌倉幕府は前回の侵略に懲りていたので、スパイ等のあらゆる手段を使い、情勢を探っていましたので、侵攻前の1年ほど前には、元軍が朝鮮半島の金洲に軍を集結させている様子や侵攻時期、編成等の情報は掴んでいました。

高麗兵を中心とした4万名の東路軍と元の本隊10万名の江南軍合わせて14万名の大群を4,400隻に分乗させて侵攻してきます。

一度に出航させると、何かの拍子に接触事故を起こす確率が高くなり、ドミノ式に広がる恐れが出てくるので、先に東路軍が数日間に分けて出航します。

これだけの数の船なので、海全体が船で埋め尽くされる感じになります。

これも前回と同様のコースを辿ります。

対馬・壱岐を攻め日本の防衛部隊は数が少ないので、瞬く間に全滅します。

第一回目と違う所は、彼等が長期戦の準備をしてきたことです。

第2陣の江南軍は、12万石以上の食料や鋤鍬等の農機具までを用意しており、食料を自前で作りながら戦おうとしていたのです。

元が征服した国の兵士を前線へ送って、更に侵略を行う事は他のアジア諸国でも同様でしたが、数万人程度で元寇の10万人を超える規模は破格です。

多分、兵士と言うよりは、殖民としての農業従事者に武器を渡しただけの者が多く居たのではないかと考えられます。

博多湾にノコノコと進入し、上陸した東路軍は、石塁に隠れながら矢を放つ4万名の日本軍の前にバタバタと倒れていきます。

此処で、双方の弓矢の違いを説明したいと思います。

日本の弓は3m程度と長い強弦力の弓であり、皆様が想像される今日の弓道で用いられている物の3倍程度の弦力を持つ別物であった事を理解して頂きたいと思います。

数種類の木を、組み合わせた合板でできており、しなやかで粘りのある弓となっています。

昔の三十三間堂の通し矢では、今日行われている60m程度のちゃちなものでは無く、フルの121m以上をビュンビュンと飛ばしており、仰角を大きくすれば長距離射程が可能な400m程度は飛ぶ性能だったようです。

その長射程用の弓を馬上からも射ることができるように、和弓は真ん中に矢を添えて射るのでは無く、下方1/ の部分で添えて射るよう変形した弓となっており、引き絞ると黄金比の三角形になるよう精巧に作られていたのです。

元軍の弓も粘りのある木等を、組み合わせて作られており、これも200m〜300m程度は飛ぶ性能を持っていました。(狭い船中にできるだけ多くの弓矢を収納する必要から、大弓では無く馬上から射る短い弓を主として装備していたと思われ、射程は短かったと思います。)

弓よりも違いは矢に有ります。

日本の弓矢の鏃は日本刀と同様に、職人により鍛造された鋼で作られ、刀と同様に鋭い刃が付いており、鋼鉄の柄の部分が細竹製の筒に長く差し入れられるように作られており、その為、質量が大きくなっています。

矢の柄も職人が吟味した細竹を充分乾燥させた後、曲がりを熱で補正して直線となるように細工して、要所要所に糸をきつく巻き上げ、膠で貼り付けていました。

戦闘に使われる矢は征矢と呼ばれ、人員殺生用の鋭い鋭角の矢先、硬い木盾等を貫通させるための長四角形打撃ハンマーの矢先、人員殺傷と木盾貫通の両方に使用できる十字鋭角の下方に四角形打撃ハンマーが付いた矢先等様々な矢先の物が備わっていました。

更に飛行直進性を維持する羽は3枚で少し斜めに付いています。

これにより、大きな質量で旋回しながら高速で飛翔することになります。

これに対して元の鏃は、作れるものならどんな物でもという感じで、銅・鉄(鋳造が主)・骨製の柄の短い、キャップで矢の柄に嵌め込む方式で、質量が軽く刃先も切り進んでいくというよりは突き刺すことを重点に置いた物となっています。(各村の村民を動員して作らせていたようで、日本の職人が作る物とは対照的でした)

飛行直進性を維持する羽は平行に4枚が付いており、旋回せずにそのままの状態で飛翔するようになっています。

どういう風に違うかと端的に言いますと、日本の矢は飛翔距離が元の矢と比べると長く、質量があり旋回しているので、衝撃力が大きく、単に食い込むのでは無く、捻りながら刺さるので、動脈・内臓等への破壊力も大きく、マンストップパワーが大きいということです。

その為、軽くてマンストップパワーの劣る元の矢には毒が塗ってあり、それを補っているのです。

更に日本の鎧は重防御となっているので、質量の軽い矢では貫通して傷を負わせることが困難なので、矢衾とハリネズミのようになりながらも向かってくる武士に元軍は恐れおののく事になります。

正にゾンビを相手にしていると錯覚しますね。

話を戻します。

上陸して橋頭堡を築けなかった元軍は6月6日に志賀島を占領して船を停泊させます。

しかし、彼等が停泊した反対側には海の中道という地続きの所があった為、此処からと海上の二手から日本軍は夜襲を毎夜毎にかけます。

6月8日には日本軍は海路と海の中道からの総攻撃をかけます。

伊予御家人の河野通有は傷を負いながらも元軍の将軍を生け捕ることに成功し、関東御使の合田遠俊、肥後御家人の竹崎季長、大矢野種保・種村親子、筑後御家人の草野経永、筑前御家人の秋月種宗、肥前御家人の福田兼重・兼光親子等により、投鉤・打鉤を使い敵船上に乗り込み、高麗兵を切り倒し活躍しますが、4百名もの犠牲者がでます。

船上に攻め寄せる日本軍に、元軍は数千名の被害を出し、6月9日に志賀島を放棄し、壱岐へ向かいます。

壱岐で東路軍は江南軍を待つことにしますが、江南軍は6月15日を過ぎても到着しません。

梅雨に入っていた為、船中の湿度は非常に高く、衛生面もかなり劣悪な中、食料不足も重なり、当時朝鮮半島で流行っていた天然痘と思われる疫病により、3,000名以上も病死する被害が出ており、カビ毒が原因となる者も多くいたのではないかと思います。。

 ここで、保存食に起こる恐ろしい現実を述べることにします。

現代では良く知られていますアフラトキシンというカビ毒があります。

B1B2・G1G2等、10種類以上発見されていますが、その中でもB1は最強の毒素が有り、ダイオキシンの10倍以上の発ガン性を持つと共に、過剰摂取(ほんの少しですが)の場合は急性毒性により、急性肝炎や黄疸となり助かりません。

温度30度前後で湿度90%あれば直ぐに繁殖を始め、小麦・果物・野菜何にでも発生し、

梅雨時期で密閉された船内では正にこの状態となります。

更にこの頃は、小麦系に付く麦角菌を収穫後に取り除く術を知らず、混入した場合 猛烈なアルカロイド毒素により、中世ヨーロッパでは何百万人も死んでいます。

アフラトキシンは熱帯地方での発生率が高く、コーヒーやナッツ等に1mm程度の虫が小さな穴を開けて中身を食い荒らしますが、その空間にカビがびっしりと生えます。

コーヒー等は、1粒づつチェックしながら収穫はしませんので、焙煎する時にも省かれず、カビ毒は焼かれた程度の温度では分解しませんので、そのまま残り拡散します。

もっとも輸送中 種子の表面周りにも、環境さえ整えば繁殖します。

経口摂取しますと、毒素の30%程度は体外に排出されますが後は肝臓を中心に蓄積していきます。

毒素が集積すると共に、周りの細胞を徐々に攻撃していき、それに伴い癌化が進行することが動物実験で証明されています。

また、洪水等で収穫した穀物が濡れてしまった場合、直ぐにカビが生え、水洗いしてもその毒性が落ちないので注意を要しますし、飼料にした場合、乳中にアフラトキシンM1M2が出現しますので、どうにもなりませんね。

昔は稲の収穫後、天日干ししていましたが、カビの発生危険が有る為、現在では直ぐに機械乾燥させてしまいますが、風情を楽しむ所の問題では無いようです。

こうして観ますと、人類が食料を保存する段階に達したと同時に、カビ毒と付き合うようになり、その毒性に遺伝的に弱い人が癌等を発症するのではないかと思っています。

どうも、本筋に関連した事項の説明を始めますと、細かい所が気になり、くどくどと長くなるのが私の欠点なので反省しています。

不衛生な船から下れないので、カビ毒で弱った体に流行疫病がとりついたと思われます。

 

東路軍内で撤退か侵攻継続かで議論がされますが、江南軍と合流すれば勝算は有ると結論され、待ち続けます。

江南軍は予定よりかなり遅れ、6月18日前後から10日程かけて、朝鮮半島の慶元や定海から次々と出航しているようで、壱岐では無く平戸島と鷹島へと向かいます。

平戸島は大宰府に近く日本軍が防備を固めていないという理由からだとされていますが、疫病の感染を防ぐ為に、違う係留地を目指したものと考えられます。

なにしろ4、000隻以上の船が終結するのですから、狭い場所に収まり切る訳が無く、其処彼処 全ての湾岸一帯に停泊するしかないと思いますし、橋頭堡を築けなかった場合、水の供給や汚水処理ができなくなるので、かなりリスキーな規模の侵攻作戦といえます。

6月27日には平戸島・鷹島に到着し、島全体に陣地を築き、日本軍の攻撃に備えます。

船は波浪に備え、15m〜20m間隔で停泊させたようですが、これが後で被害が少なくなる要因となります。

6月29日には、日本軍は壱岐に巣くっている東路軍に対して、瀬戸浦に上陸作戦を行い、龍造寺氏、高木氏、松浦党を中心とした2万の兵力で攻撃をかけ、東路軍と決戦をします。

日本軍は、多大な損害を受けながらも善戦し、疫病に苦しんでいた東路軍は江南軍が平戸島で展開しているとの報告を受け、7月上旬には平戸島へ撤退します。

7月15日前後より 江南軍は平戸島から鷹島へ主力を移し始め、大宰府攻撃に備えます。

この頃には東路軍も鷹島に着き、江南軍との合流を果たします。

7月27日には、先の壱岐攻撃で武功をたてた武士を中心に再編成した日本水軍は、鷹島に停泊している元船に攻撃をかけます。

元軍は鷹島には山城を築き防備に備えると共に、沖合の艦船は互いに紐で縛り、海上の砦と成して守備を固めていましたが、この付近の海上は潮の流れや満ち引きが大きい為、船上では足場が悪く、地理を知り尽くした日本軍の小船(10人程度乗船)を中心とする数百隻に及ぶ乗り移り戦法で、1万人以下だったと推定されますが翻弄されます。

 この頃、六波羅探題からの日本軍増援部隊6万余名は、長府から北九州を目指して進軍中でした。

7月30日夜半、停泊していた4,400隻の元船に台風が来襲します。

鷹島中心では、海上の砦とする為、密集して互いに縛り付けていた船同士が激しくぶつかり合い、瞬く間に砕けて沈んでいきます。

ただ、全部の船が縛り付けられていた訳でも無く、北九州一帯の海上に様々な形態で停泊していた4,400隻なので、被害が少なかった船団(丁寧に作られた頑丈な高麗船)も有り、数百隻は沈没を免れました。

平戸島に停泊していた江南軍の張禧の船団は船間を空けて停泊していたので被害は少なく、同じく囊加歹が率いる戦闘艦隊は、日本沿海にも居なかったので、被害はありませんでした。

東路軍のイェスダル率いる戦闘艦隊についても被害は無く、全艦隊無事に朝鮮半島へ戻りました。

フビライは日本侵攻作戦が完敗し、逃げ戻ったこれ等の将軍に対し、罰するどころか兵力を温存できたとして、恩賞を与えています。

このように、九州北部を襲った台風(この時代、台風は年間34回来襲していました)は、中規模程度のもので、朝鮮半島から北九州を覆うものでは無かったので、幅広く展開していた船舶の運命に温度差ができたのだと結論できます。

翌 閏7月5日(この時代、閏年には閏月を設けていました)、江南軍総司令官 笵文虎と張禧将軍等で今後の作戦展開について、議論されます。

張禧将軍等は、糧食・武器もほぼ無くなった段階にも係らず、徹底抗戦を主張しますが、良識の有る笵文虎は、腹をくくり、撤退を決断します。

鷹島中心に展開していた江南軍主力船団は、ほぼ壊滅したので、残存した船舶は少なく、各将軍達は船から兵隊達を降ろし、自分たちが乗り込み、兵士10万余名を置き去りにして逃亡します。

置き去りにされた兵士達は鷹島の森林を伐採して、逃亡する船を建造するという究極の手段を採る事になります。

一方、平戸島に布陣していた張禧は、船のあらゆる荷物を廃棄し、兵士を収容して帰航します。

同日、日本軍は元軍が総退却する機を逃さず、鷹島と九州本土との間 伊万里湾内に残る元船に総攻撃をかけます。

特に伊万里湾からの脱出口である御厨海上(鷹島の南西の伊万里湾内)における、夕刻に掛けての戦闘では、ほぼ全ての元船を殲滅させます。

閏 7月7日、幕府からの増援部隊6万名を加えた8万余名の日本軍は鷹島に立て籠もる10万の元軍と未だ伊万里湾内に残る元船に総攻撃をかけます。

ほぼ武器・食料も無く、味方に見捨てられ指揮系統の無い、疲労困憊の元軍は日本軍の敵ではありませんでした。

翌 閏7月8日までに元軍は7万余名の死体の山を築き、閏7月9日には降伏し、日本軍は生き残り捕虜3万名を博多へ連行します。

その後、捕虜の大部分は処刑され、僅かの旧南宗人が奴隷として残されようです。

この侵攻作戦の失敗で、元は海軍力の2/3以上を失い、ベテラン水夫の多くを失い、高麗は財政危機に見舞われ、一揆や氾濫が各地で発生し収拾が付かなくなっていきます。

フビライも心配になった為、高麗南沿岸警備の鎮辺万戸府を設け日本軍の襲来に備えます。

鎌倉幕府は再び、北九州諸国を中心とした高麗出兵計画を立てますが、ほぼ恩賞もない手出し弁当の防衛戦闘だったので、経済困窮の為、派兵など出来る訳が無く中止となります。

 

 フビライは大規模な2回の侵攻作戦が大失敗となり、多大な損害を被ったにも関わらず、弘安5年(1282)日本侵攻の為の日本行省を撤廃しましたが、やはり諦め切れなかったのか、日本侵攻計画を練ります。

高麗国王の忠烈はその意を察して、高麗船100隻以上の建造を申し出て、ご機嫌を取ります。

フビライは舞い上がり、3,000隻もの軍船の建造を各占領地へ命じますが、既に2回の侵攻作戦で大量の木材を山々から切り出していたので、木材不足に陥ってしまいました。

そこで、民間から船を徴用することにし、弘安6年(1283)日本行省を再設置し、阿塔海をトップに任命し、徹里帖木兒(チェリテムル)、劉国傑を補佐につけます。

彼等は2回の侵攻作戦の敗北で、まともな兵士はいなくなった為、掻き集めの人員を訓練し、同年8月に侵攻させようとしますが、財政負担・人員提供が各地で大きな負担となり、全国において一揆が頻発します。

参謀の崔ケや昂吉児はフビライに国力が回復してから日本侵攻をすべきと、強く諌めた為フビライは同年5月に中止します。

こうして観ますと、フビライは政治家やCEOとしてはかなりバランス感覚の無い執政者として写ります。

江南地区では大規模な一揆が頻発し、日本侵攻の為の日本行省は鎮圧に向かいます。

同年8月に、軍事的解決以外に外交解決を目指し、王君治、補陀禅寺の如智から成る使節団を派遣しますが、台風に遭遇し、日本へは行けませんでした。

弘安7年(1284)2月にフビライは建造計画を全て取り止め、日本行省の軍隊をベトナム南方にあるチャンパ王国へ鎮圧の為に振り向け、5月に形骸化した日本行省を廃止します。

日本では、高麗・中国での間者から、この年の4月に元の大軍が来襲するという情報が通知されたので、北九州の各武士へ用心するよう通知がされました。

 

 ところが、弘安7年(1284)10月、フビライは日本侵攻の為の軍船と水夫を集めるよう命令すると同時に正史 王積翁と再び補陀禅寺の如智等が使節団として日本へ派遣されますが、日本に向かうのを恐れた水夫に王積翁が暗殺され失敗します。

翌年の弘安8年(1285)中に全ての準備を終了させるよう厳命をします。

この人の頭は本当にどうなっているのでしょうか、まともじゃないです。

当然、周りの参謀達は注視させるよう頭を捻り、丁度良い事態が弘安9年(1286)に起こります。

外征である北ベトナムの陳朝大越国が、元の勢力下にあるチャンパ王国に侵入してきたので、この機会を参謀達は逃しませんでした。

 弘安10年(1287)高麗国の北側でモンゴル王家である乃顔(ナヤン)が日本侵攻の為の船建造、徴兵の負担が大きくのしかかり、反乱を起こし、中央アジアのモンゴル皇族である海都(カイドゥ)も独立目指して反乱を起こします。

ナヤンの反乱は直ぐに鎮圧されますが、東方三王家の当主更迭処置に反発したカチウン家の哈丹(カダアン)が反乱を起こします。

また、北ベトナムの陳朝大越国との戦いでは、白藤江の戦いで元軍は壊滅する等、正応4年(1291)まで、日本侵攻の影響で内外でのごたごたが発生し、その対応に追われます。

 正応5年(1292)フビライは、高麗に漂着した日本人の護送をネタに服従を迫る国書を渡すよう高麗に命じます。

正使 金有成、郭鱗を日本へ派遣しますが、成功せず、罰を恐れた金有成は日本に定住します。

フビライは再度軍船の建造をご機嫌伺いをする高麗に命じますが、高麗には相次ぐ軍船建造で森林が無くなっており、建造は進まなかったようです。

永仁2年(1294)1月にフビライは亡くなり、ここに日本侵攻計画は完全に消え去ります。

 多くの兵力と資材を投じて日本への侵攻を元は行いましたが、兵数が多ければ、如何なる場所でも戦いは勝つという思い上がりは、日本においては見事に打ち砕かれたのです。

 

勝敗を決めるのは兵力数や意志の強さである事は間違いないことですが、互いに所有する武器の優劣もそれにかなり影響します。

矢については先に述べましたので、当時の主要な武器である鎧・兜や刀について説明していこうと思います。

日本の鎧はヨーロッパの騎士が着用する重装甲(30Kg以上あり、視界も悪く手足も自由に動かせず、倒れると一人では立ち上がれない代物)の物に比べると、喉、脇、各関節の内側部分については装甲されていません。

主要な部分は重装甲で防御するが、動きを敏捷にする為、関節や脇等の動きが必要な箇所は装甲しない工夫がされていました。

これに対して、元の兵隊は重い鉄では無く、革製の軽装な鎧を着用し、日本側の動きを敏捷にする工夫に近い方法を採っていました。

ヨーロッパ風に言えば、日本の武士は重装甲騎馬兵+弓騎兵+歩兵の合わさった様な感じで、元の弓騎兵+歩兵よりは汎用的に戦える素地がありました。

戦い方も三者三様に違ったものとなっています。

ヨーロッパにおける元との戦いについては、ポーランド・ドイツの連合軍がモンゴル軍と戦ったワールシュタットの戦いを例に説明します。

ヨーロッパ連合軍は重装備の騎兵を前面に歩兵を後方に配置し、騎兵が敵の正面に突っ込んで蹴散らし、遅れて続く歩兵の槍部隊が混乱した敵兵を集団で殲滅させる方法ですが、これに対して、モンゴル軍は中央に遊動軽装騎兵を配置し、その両脇には軽装の弓騎兵を配置、後方には重装甲騎兵が控える体制でした。

ヨーロッパ騎士団がモンゴル軍の正面の軽装騎兵に襲いかかりますが、小集団毎に機敏な動き(草原を自在に駆け巡る)で、モンゴル騎士はヨーロッパ騎士団を翻弄します。

しばらくすると、モンゴル軽装騎兵は後退を始めます。

ヨーロッパ騎士団は優勢になったと勘違いして深追いを始め、両側面に位置するモンゴル弓騎兵が控える場所まで来ると、弓による狙い撃ちが始まります。

同時に、焚き火による煙を発生させて後続の槍歩兵と騎士団の隔離を始めます。

ほぼこの段階でヨーロッパ騎士団は全滅します。

ヨーロッパ槍歩兵に対しては、両側面の弓騎兵が面制圧の為に最大射程での射角40度前後(真空中では45度ですが、空気抵抗等の影響がある為)で、雨あられの如く予め決められた地点へ矢を降り注ぎます。

映画で観られるように天から雨の様に降ってくる矢でばたばたと兵士が倒れていきますが、それです。

有る程度、兵数が減少した後で、距離が縮まると、今度は狩猟で鍛えた得意な弓による精密射撃を行い、敵が逃げ惑う中を今度は重装甲騎兵が殺戮していきます。

このようにモンゴル戦術は、軽装騎兵の遊撃部隊で誘いをかけて懐近くへ誘き寄せて、待ち構えていた弓騎兵による大量の矢攻撃で半減させ、最後は重装甲騎兵による止めを刺すという機動力を生かした戦法でした。

ヨーロッパ攻略での最初に陥落したロシアの都市リャザン市では、赤ん坊から年寄りに至るまで市民全員がなぶり殺しに会い、その後 次々と陥落した都市での残虐な殺し方が伝わっていくと、分裂していたヨーロッパ諸国は団結して戦うようになります。

ワールシュタットの戦いはその初めだったのですが、残念ながら殲滅してしまいました。

モンゴル軍では、後方に敵は一人も残さない方針で、陵辱・略奪の限りを尽くした後、惨たらしく殺していくのは軍の統制規範でもあったのです。

狩猟民族であるので、農業生産や商業利益よりも殺戮が優先したのでしょう。

日本では、農業生産等が見込める一般市民に対しては、年貢を納めさせるメリットがあるので殺さず、多くは武士階級の責任者を切腹させ介錯して首を刎ねていました。

戦闘においても敵将の首を集めないと報酬が貰えないので、首切りは普通に行われており、モンゴル兵以上に残酷に見えるかもしれません。

また、死と隣り合わせに生きていたので、他国の軍人と比べると、敵わなくなると降伏するのでは無く、全滅を覚悟で最後まで戦うか、自殺するかであった為、戦闘に対する意識は他国の兵士が理解できない程、研ぎ澄まされており、敵にしたくない相手だったのです。

戦国時代に突入すると、更にこれに磨きがかかり、戦乱が一世紀にも及んだので、技量・士気共に間違いなく世界最強の殺人集団となっており、元は誤った選択をした事を後悔することになります。

 

次に刀剣について、観てみる事にします。

最初に、日本刀の発達の歴史から観て見ましょう。

平安時代末期には、騎馬戦が主となり、鎧兜の重量制限がかなり緩和されてきます。

鎧兜は更に防御力を増し、重くて硬いものへと変わっていきます。

刀はその硬い鎧を纏った人間を斬る為に、強度を上げた鎬造りの物が作られます。

刀の持ち手に近い所の厚み(元幅)に対して、刀の先の厚みが半分程度となる腰反りが高い反りの無い小切先の物が主流となります。

これにより、馬上に居る者が相手(馬上あるいは地上)に斬りつける時の衝撃を緩和し、切先に反りが無いので、鎧が無い間接部への刺突に適した物となりました。

鎌倉時代になり、貴族から武士へと戦いの主流が移ると、平安時代の優雅な物から実用本位の物へと変貌していきます。

騎馬同士の騎馬戦から騎馬から地上に居る雑兵を撫で切る為、刀の使い方が刺突から斬りへと変化します。

刀の反りは刃先側へ少し移動した腰反りとなり、刀の幅も元と先の刀幅の差が小さくなり、強度が増すと共に重くなります。

切先はその割には小さく、猪首切先となります。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府とやりやった時代なので、武士を募集する一方、全国から刀鍛冶を集め、優遇措置をとりました。

その影響で刀鍛冶による日本刀の全盛時代が訪れるのです。

鎌倉時代中期以降は、更に強さを増す刀が要求され、硬い鎧を叩き切るという目的に適した刀幅の広い物が主流となります。

刃肉は蛤のように膨らんでおり、重ねの厚い刀となり、重いので取り回しが素早くできず、焼きが甘い場合は曲がってしまう物となり、切先が刃こぼれした場合、猪首の為 寸詰まりで研ぎをすると切先自体が無くなる恐れもでてきました。

元寇以降、研究熱心な刀鍛冶を中心として、切れ味を上げるために、薄刃肉の材料をより強く鍛えて火力の大きいもので焼き、それを急速冷却することにより、切先が伸び、強度と靭性を兼ねた、優れた刀剣を多く輩出し、名刀正宗が誕生する母体となって行きます。

また、元寇での戦闘を契機に日本刀の刃部分の構造にも大きな変化がありました。

革製の鎧や盾等の硬い物も簡単に斬れる様、刃幅(刀の刃部分から上部棟までの高さ)の大きい物となり、刀の断面も片切刃造りという構造となりました。

これは、右利きの者が刀を振り下ろす時に、右手の親指は刀の柄を跨ぐ格好となるので、人を斬る場合、右斜め上から左斜め下へと刀の軌跡が走り、切先は左側へと向かいます。

刀の刃の断面は、左側刃部分の角度は鋭くなっており、反対側の右手の刃角は大きくなっており、刃先は右側へ向かおうとするのです。

この切先が左手に行こうとする力と構造的に右側へ行こうとする力を相殺して、真直ぐに斬れる様にしたのです。

また、馬上主体から歩兵戦闘での振回しがし易いように90Cm程度の刃長から70Cm程度の刃長となり、刃長の割には短い猪首切先となり、硬い物を斬るのにより適した構造となっていくのです。

 

 次に、何故 日本刀は中国やヨーロッパの刀剣よりも粘り強く切れが良いのかを、製作過程における内部組織構造の変化を観ながら説明する事にします。

刀剣類は、硬さが無ければ何も切れずフニャフニャと曲がってしまいますし、逆に硬くなりすぎると、ちょっとした衝撃で簡単に折れてしまいます。

欲を言えば、切れ味が良くて、しかも弾力性に富んでいる刀が欲しいという難題を解決すれば、最強の武器を得られ、戦闘での勝利に大きく貢献するのです。

熱処理の仕事をしておられる人なら、炭素鋼の組合せと焼入れ・焼鈍しという風にピンとくると思いますが、当時はそういう学問を学ぶ所もありませんでしたので、全て多くの実験と経験を積み重ね、門外不出のノウハウとして、刀工達が受け継いでいました。

熱処理に関しては、中国ではだいぶ前よりそのノウハウがあったようで、その技術を使って、武器の大量生産が行われていました。(中国でも日本と同様、切先を持つ片刃剣ですが、柄と刀身が一体成形となっています)

しかしながら、量産重視の為か、各種炭素鋼の組合せや刀剣各部分への焼入れ度の違いまでフォローするものではありませんでした。

究極まで切れ味と弾力性を追求した結果、芸術的にも凄みのあるシャープな美しさを持つ日本刀とは違い、刀剣類に対する感性の違いを感じさせます。

ヨーロッパでは、ロングソードに代表されるように、突く事を主眼とした両刃剣であり、斬るというよりは打撃を与える代物で厚革の鎧(モンゴル兵の装備)は切れなかったようで、中国の刀も鎧に厚革を使用している所から同様と思われます。

初期のロングソードは浸炭技術が未熟だったので、直ぐに表面が剥離し、中の軟鉄が顔を覗かせ曲がるので、それを防ぐ為、厚みを持った刃幅の広いかなり重量がある剣となっていました。

このように日本とそれ以外の国ではかなり刀に対する思いと、使用方法が異なっていました。

次に刀の素材である鉄の製造を観てみましょう。

当時の日本では、たたら製鉄という方法で砂鉄と木炭とで玉鋼を製造していました。

砂鉄は変成岩・堆積岩・花崗岩から成る山の川から採れる物が不純物が少なく良質であり、主として兵庫県内を中心とした山川が採取地でした。

現在ではビニール袋に入れた磁石で川底を探ると、砂鉄が付いてきますが、当時は色合い等を見て、感性で採っていたようです。

採取した砂鉄は斜めにした板の上に置いて水を流しますと、鉄分の軽いものは流れていきますので、残った物をよく水洗いして汚れを取ります。

 こうして材料が揃いましたら、たたら溶鉱炉を造ります。

2m程度の土盛をして、V字型に中をくり抜き、底から少し離れた位置に空気を送り込む横穴を数箇所作ります。(溶けた物が堆積するので少し上方に作り、底が塞がれても流れ出さぬように斜め上に向くようにします。)

この中に薪を入れて燃やし、周りの土を完全に乾かします。

乾いた後、空気穴からの空気を全体に均等に回す為、底には練炭状の炭か細い炭を立てて並べ、その上に炭を横に並べて点火します。

その上に、更に練炭状の空気穴が確保できる物を敷き並べて、その上に細かく砕いた炭を乗せ、その上に細かく砕いた炭と砂鉄の混合物を敷き並べ、この作業を炉の上部にくるまで繰り返します。

炉の最上部には炭を敷き、その上には不純物吸着剤としての砂を撒きます。

たたら製鉄では決して、高温(1300度以上)に成らぬよう、赤火状態を持続させる為に、空気を絞りながら燃焼させます。

西洋や中国のように水車等の力で大量の空気を送り高温にして、炭素や不純物ごと溶融させてしまうのでは無く、鉄の還元を意識した製鉄方法なのです。

純鉄の融点は約1500度ですが、たたら製鉄では木炭燃焼なので1300度程度にしか温度が上がりません。

砂鉄の融点は約1400度なので、完全に溶融するわけでは無く、半溶解の状態での木炭による強力な還元作用と鉄の結晶を肥大させずに玉鋼を製造するという風に理解した方が正確な言い方と思います。

 砂鉄が半溶解状態となると、上部に低い温度で溶融する不純物(グズ)が浮かんでくるので、都度取り除きます。

全体に火が回って下火になってきましたら、土を被せて還元燃焼反応を止め、3日程度自然冷却した後で溶鉱炉を破壊して底に溜まった鉄塊を取り出します。

鋳鉄成分(炭素含有量が2.14%以上)が全体の9割程度あり、鍛造できないので、取り除きます。

ハンマー等で強く叩くと炭素を多く含んでいるので、簡単に剥がれるので、その切断面が綺麗な物を取り除くのです。

 西洋においても、14世紀に入るまでは鉄を完全に溶融する炉技術はありませんでした。

その為、西洋でも鉄の還元方法を使って鉄を製造していました。

日本との違いは、材料に鉄鉱石を使っていることです。

鉄鉱石にはリン・マンガンを始めとする不純物が多く入っているので、日本程良質な鉄は得られませんでした。

更に、たたら製鉄のように火力調整をしなかったので、より還元作用が進み、純鉄(炭素量が殆ど無いという意味で不純物が少ないという意味ではありません。)に近い物となり、フニャフニャと曲がる鉄となります。

そこで、硬さを持たせる為に浸炭(炭素を加える)工程が必要となり、この錬鉄を木炭で加熱していき炭素量を増加させようとしますが、鉄表面からの浸炭作用なので、表面のみで、内部には浸透していきません。

その為、表面しか焼入れができないロングソードが製造され、何回か剣をあわせている間に剥がれて、軟鉄が剥き出しとなり、クニャリと曲がってしまうのです。

それでも鉄剣(鋼では無い錬鉄製)しか持たないケルト人がローマ軍に負けたのは、ケルト人の武器は一撃で曲がるので、1回毎に地面に立てて、足で踏んで直しながら戦うしかなかったので、不十分ながらも焼入れがされていた剣を持つローマ軍に蹂躙されたのです。

これに対して、中国では紀元前から鉄を完全に溶融させる炉技術を所持していた為、完全に溶けた銑鉄となり、周りに有る炭素や介在物も多く溶け込んでしまったので、今度は逆に炭素量の多い鋳鉄となって製造されていました。

この製造方法は現代の物と同一の原理に基づく方法であり、炭素添加し易く炭素濃度も均一にできますが、これで得られる鋳鉄は刀としてはこのままでは使えません。

鋳鉄を加熱溶融させて、これを攪拌させて空気を混ぜ入れ鋳鉄の炭素と化合させて二酸化炭素として排出させます。

これを炒鋼法と呼びますが、現在の製鉄所では転炉に酸素ガスを吹き込んで行っています。

西洋では18世紀にバドル炉が出現して、ようやくこれに追いつきます。

しかし、中国でもリンやその他介在物の多い鉄鉱石を使用していた為、強く粘りの有る刀は作れませんでした。

日本でも江戸時代頃には、たたら製鉄が衰退して、中国からの鉄の輸入が増えて、それを使用した刀作りが行われるようになりますが、不良な介在物が多い鉄をどう処理するかについては後述の水減しや鍛錬の項で説明いたします。

 

次に、玉鋼から日本刀を作る行程に移ります。

「水減し」という作業は、玉鋼を熱して薄く平に延ばしていく作業です。

玉鋼を高温加熱して、直ぐに強く叩くとバラバラに飛び散ってしまいますので、最初は低い温度で加熱しながら、熱環境に慣れた段階で加熱高温にして強く叩きます。

厚さが5mm程度になった所で、水に入れて焼入れをします。

製造された玉鋼は均質の鋼では無いので、炭素量が非常に多い箇所はこの衝撃でバラバラに剥離しますが、鍛造には耐えられない程の炭素含有量が有る可能性が高いので、バラバラに剥離した鉄は使いません。

砕け落ちなかった部分は、泥粘土に藁灰をかけて火床で1200度〜1300度になるまで加熱します。(日本の火床ではこれ以上の温度上昇は無理で、材料としては熱カロリーの高い木炭を使用し、低温長持ちする備長炭は選択外でした。)

加熱した後、平に延ばされた玉鋼をハンマーで叩いて、細かく分割し、炭素量の多い鋼と炭素量の少ない軟鋼とに選別します。

藁灰にはガラス質のSiが多く含まれており、鉄の酸化皮膜を剥がす効果が有ると同時に、1300度の高温(藁灰以外の灰ではガラス質が低く高温処理には不適)での鍛着剤としての効果があるのです。

日本の兵庫近辺で採れる砂鉄には良質な介在物(酸化皮膜を剥がし、鉄に悪影響を与えない物)が含まれており、この材料を使う限りは、藁灰を多く使う必要はありませんでしたが、当時はそのような知識は無かったので、製造工程に含まれそのまま継承されていきます。

 次に梃子台という、柄の付いた平たい鋼鉄製の薄い台の上に、選別した炭素量の多い鋼の欠片のみを積み重ねて、一つの塊として置いていきます。

また、それとは別に炭素量の少ない軟鋼の欠片のみを積み重ねて、一つの塊として置いていき、鋼と軟鋼の2つの梃子台に積み重ねます。

積み重ねが終わったら、それを鍛えて刀となる地鉄を作ります。

炭素量の多い鋼になる物と、炭素量の少ない軟鋼となる物は別々に鍛錬します。

1300度程度に地鉄を加熱し、ハンマーで大まかな不純物を叩き出し、組織結晶を小さくしながら靭性を高めます。

1cm程度の厚さまで延ばした後、横に折り目を付けて折り畳み、それをまた延ばします。

折り目を横なら横のみ、縦なら縦のみに付けて繰り返し16回程度鍛錬するやり方や、横・縦と交互に折り畳んで鍛錬を繰り返すやり方が流派毎に有ります。

この方法の違いで、俗に言う鉄の鍛え肌というものの違いが出てきます。

折り返し方法には、横(梃子棒に対して垂直)に鏨を入れて、縦に折り返す事を一文字鍛えと呼び、一文字鍛えの後に、縦(梃子棒に対して平行)に鏨を入れて、横に折り返す事を十文字鍛えと呼びます。

一文字鍛えの後に、側面を上にして金床に置き、また横に鏨を入れて、縦に折り返す方法を四方柾と呼びます。

板目肌を出す場合は十文字鍛え、柾目肌を出すには一文字鍛えか四方柾で鍛えます。

鍛造は、粗鉄から組織間隙間の排除、不純物(非金属介在物質)排除や炭素量の微調整をするのに有効な手段であり、当時 世界中で行われていました。

しかし、折り返しの鍛造はヨーロッパや中国でも行われていたという文献は無く、当時の破損した刀からの結晶の大きさや地肌の様子から、単に鍛造のみ行っていたのではと想像されます。

ただし、粗鉄組織内の微細な非鉄金属介在物等は23回目以降の折り返し鍛錬で、不純物は火花となり除去されますが、それ以降は鉄表面には出てこなくなり、結晶構造組織内への微細化と均一な分布に役立つと考えられます。

つまり 鍛錬の回数は、靭性の増加をもたらすものと考えられるのです。

16回程度までは強靭性がピークとなりますが、それ以降の鍛錬は鉄繊維の弾力の限界を超えることとなり、逆に弾力の低下をもたらすことが実験結果からも証明されています。

折り返し鍛造される鍛接面は不純物の還元に伴って純鉄に近くなり、これが次々と織り込まれていくので、回数が多くなり過ぎると脱炭が進み、柔らかくなって刀としては使えなくなります。

その為、日本での玉鋼を使用するならば、この16回程度の折り返し鍛錬が理想となり、大きな結晶構造を潰せ、細かい結晶構造に変換でき、きれいな地肌を形成できるのです。

このようにして、厚さ三分、幅四分、長さ二寸五分の大きさに鋼と軟鋼を別々に作ります。

 

軟鉄と鋼の組合せについてはヨーロッパや中国においても行われていたようですが、炭素含有量の少ない鋼の熱プレートを炭素量の多い鋼の熱プレートで包み込んで製造していたと推測され、日本の炭素量の違う材質の物を個別に鍛造して、それを組合せて更に鍛造していくやり方とは大きく違っているように見受けられます。

微小の炭素が固溶するフェライトのオーステナイト化(他の金属が固溶する状態:後述で詳しく説明します)が始まるのは727℃からですが、800℃を超えると結晶組織の肥大化が発生しますので、750℃〜780℃での焼き入れ温度を守る必要がありますが、当時は放射温度計も無いので、刀工は素材が熱せられる色合いを、昼と夜に分けて習得していたのです。

 

 折り返し鍛錬終了後、炭素量の多い鋼は、刀の外側の皮鉄に使う為、ハンマーで真ん中を打ち、U字管型に成形し、炭素量の少ない軟鋼は、芯鉄に使う為、長方形に成形します。

芯鉄を皮鉄で包み鍛接しますが、単にU字型の皮鉄に芯鉄を挟み込んだだけの物、その上に皮鉄で蓋をする物等、様々なやり方が流派毎に有ります。

 鋼と軟鋼との組合せが終わると、素延べと呼ぶ、刀の形に成形していく作業に移ります。

真っ赤に加熱した素材を水を打ちながら大鎚で刀の形に延ばしていきます。

この作業で正確に刀のサイズに仕上げます。

刀の形ができましたら、切先を成形する為に、刀の背にあたる棟から前方に斜めに先端部分を切り落とします。

完成した日本刀の切先とは逆の角度となりますが、切先の強度を強める為、刃側下方の出張った先を棟側に打ち出し、切先の刃側を弦型に伸ばして応力をかけます。

次は、火造りという作業で、刀工は1人で小鎚を使いながら刃部分を薄く仕上げ、棟にかけての角度を付ける鎬筋をフリーハンドで正確に1本筋で仕上げていきます。

殆ど日本刀の形になっていますが、わずかの凸凹があるので、荒砥を鉋状の道具やヤスリで研ぎ、滑らかにします。

 次はいよいよ焼き入れの段階と成ります。

鉄の組成にどのように変化が起こるのかを観ることにします。

鉄は常温では体心立法格子構造という立法体の各頂点と中心に炭素原子が配置される構造をしており、強磁性体です。

温度上昇で、900℃〜1400℃(炭素や他金属が入ると900℃よりも下がります)の領域になると、面心立方格子構造という立方体の各頂点と各面の中心に炭素原子が配置される構造となり、他元素が固溶できるようになってきます。

これは原子間の距離が面心立方格子構造体の方が短い為で、熱が加わると体積は減少し、冷やすと体積は増える性質を持つこととなるのです。

この状態で鉄以外の他元素が固溶した物をオーステナイトと呼びます。

他元素のNNiMnPdが固溶すると、オーステナイト温度領域が広がり、SiTiMoVが固溶すると、オーステナイト温度領域が狭まることになります。

当時の精錬技術では当然 他元素が固溶しており、オーステナイトとなっています。

刀工は、鉄の焼き具合の色等を見て、素材の状態を把握していたのです。

金属をグラインダー等で削る時、摩擦熱により火花が散りますが、この色合いは含有成分により違う色彩を醸し出しますが、これと同様です。

オーステナイトは、1147℃において、Max 2.14% の炭素を固溶でき、これ以上の炭素が含まれると鋳鉄となり、脆くなりそのままでは鍛造ができなくなります。

焼入れするという事は、鉄をオーステナイト状態にする温度まで加熱し、急冷する事なのです。

当然、炭素原子がギュウギュウに詰め込んであるので、膨張しようとしますが、急速に冷やされるのでその暇が無く、面心立方格子構造体のまま常温で存在できるようになり、その状態をマルテンサイトと呼びます。

しかし、全てがマルテンサイトとなる訳では無く、マルテンサイトになれなかったオーステナイト(残留オーステナイト)が多く存在し、経年経過によりマルテンサイト化していきますが、同時に容積変化も発生します。

 

現代ではこの歪を極限まで排除するサブゼロ処理という0℃以下に急冷却する方法がありますが、当時は経験則で獲得した焼き戻しの手法を用いてこれに代えていました。

炭素は鉄と化合して 炭化鉄(Fe3C)、一般にセメンタイトという硬く脆い組織となります。

今日では工具・軸受け等の耐磨耗性が要求される製品に用いられており、ビッカース硬さは、1200HVと非常に硬い組織です。

しかし、鉄自体の基礎部分は微量の炭素を固溶するフェライトと呼ばれる純鉄に近い形で存在しています。

玉鋼の場合、炭素含有率が低いので、セメンタイト部分が少ないセメンタイトとフェライトの混合物とでもいう所でしょうか。

鍛える為に加熱していくと、727℃でフェライトがオーステナイト化して、面心立方格子構造となります。(合金が入っているので、前述の900℃温度領域よりは低くなります)

オーステナイト自体はフェライトよりも固溶上限が高いので、セメンタイトから炭素を奪いながら全体に拡散していきます。

言うまでも無いですが、低炭素な鉄ほど炭素量は少ないので、高い温度を加えなければなりません。

但し、温度が高くなり過ぎると結晶が大きくなりますので、靭性が低くなり粘りが無くなります。

温度管理は非常に難しい事がお分かりになると思いますが、日本の刀工達はこれを経験則で行っていたのです。

780℃程度になると、鉄中のフェライトは全てオーステナイト化し、ほぼ均一に分布するようになります。

此処で重要な事は、セメンタイトを完全に溶け込ませるのでは無く、ある程度均一に分布させる為、温度を上げ過ぎないようにすることです。

ここで水等に入れて急冷させると、面心立方格子構造のマルテンサイトとなるのです。

当時は水(常温〜お湯)を使用していましたが、今日の炭素鋼SK材の低温焼き戻しに観られるように、200℃以下なら問題は無いと思いますが、温度が低いと不純物が多く混ざっている当時の鋼では割れが生じる危険性が高く、サブゼロ処理などもっての外ということになります。

オタク的ではありますが、今日の刀の展示は、美術的な造形美のみを誇張するように展示されて居り、このマルテンサイトの結晶を見せるようには展示されていないのが残念です。

刃部分に20度〜30度の角度で光を当てて観ると、マルテンサイトの結晶が観察できます。(刃文観察での沸[にえ]とか匂と言われる物です)

マルテンサイト自体の結晶が、斬る対象物の繊維を引き千切り、切断し易くする 切れ味の凄さに結びついているのです。

抵抗が無いほど切れ味は良いと思っておられたら、それは間違いで、ミクロ的な微細突起があればこその切れ味なのです。

刃以外の部分は焼刃土が厚く盛ってあるので急冷されずにトルースタイトという物質に変化します。トルースタイトはフェライトと微小なセメンタイトの混合物です。

マルテンサイト程の硬度はありませんが、1本の刀の各部硬度を違わせることで、刃が受ける衝撃を緩衝することができ、折れにくくしているのです。

日本刀を焼き入れする時に、焼刃土という物を刀に塗りますが、これには二つの効果があるのです。

焼刃土を塗らずに高温度に熱した刀を水に入れ場合、灼熱した鉄表面では瞬間、熱を奪われますが、一気に全面に水蒸気が発生して、断熱膜を張り温度低下を阻害します。(西洋のロングソードや中国の刀剣ではこの方式)

更に時間経過と共に、蒸気膜が収まり、水が鉄に触れて猛烈な勢いで沸騰して、この時発生した蒸気が熱を奪う事となります。

専門用語では特性温度段階と呼び、焼入れの最も重要な臨界区域(オーステナイト化の温度領域)であり、如何にこの温度を急冷して、歪みや割れが生じる温度領域を徐冷させるかが、焼入れを成功させる鍵となります。

温度低下が進み沸騰も収まって、400度程度になる時期がマルテンサイト化が始まりますので、この温度帯を早く通過してしまうと、歪みや割れが生じてしまうのです。

焼刃土を塗らない場合、鉄表面と水は水蒸気に邪魔され、鉄表面に水は継続的に触れず、焼入れの効果は一時的に減衰し、これが急冷させなければならない時間を延長させるので、焼入れは減衰する事になります。

焼刃土を塗る事で、継続的に水を吸収して鉄表面に触れさせる効果が期待できます。

もう一つは片刃剣で反りを入れるので、刃の部分に強い焼入れが必要で、地や鎬地等の部分にはそれよりも甘い焼き入れを施し、刃の部分の膨張を助けてより、反りを付けさせるためです。

このように、焼入れの際には、焼刃土の関係で自然と反りが発生しますが、これだけでは反りが浅いので、刀工は人為的に反りを付けるのです。

薙刀の様に極端に反りが付いた物は、力の弱い女性等にうってつけで、斬り付けた瞬間に引くという動作をしなくとも良いように作られています。

刀はそれほど極端に反りは付いていないので、意識的に手前に引くという動作が無いと、上手く斬れません 包丁も同様ですね。

刀の達人は、切先三寸で一撃の下で相手を斬ると言われていますが、これは刀に余分な衝撃力をかけないようにする効果と、筋肉の収縮で刀が挟まれたりするのを防止、それに体力の温存を図る為に誇張して表現していると思われますが、実際は刀身の先端1/3の所を使うと想像されます。

刀の中程以降で斬るのは、接近しすぎで、まだまだ未熟という証拠ですし、刀も傷つき易くなり折れや曲がりの発生原因にもなりかねません。

切先が伸びるという表現がありますが、これは刀を交えた時に、切先に体重をかけるように踏み込んで、相手側の刀と長い間 接する(ほんの瞬間ですが)事を避ける状態を指し、斬る瞬間に前に移動して切り捨てる極致を表現しているのです。

ましてや、防御する場合、相手の刃を刀の棟で受けずに刃で受け刃毀れするようならば、技量が全く無い証明となります。

ヨーロッパのロングソードが真直ぐな直刃であるのは、主として突きを重視しているからです。

刀工は刃部分には薄く焼刃土を塗り、棟にいく程厚く塗っていきます。

流派毎に様々な塗り方が有り、一様に厚く盛ってから刃部分の盛土を剥ぎ取っていく塗り方もあります。

それによって刃文が様々に表現されますが、部分毎の塗り厚さの違いは同様です。

このように焼入れの温度差を付けることで、硬い部分(刃側)とそれよりは軟らかい部分(地や鎬地)とが混在している状態なので、衝撃をダイレクトに伝えず緩和することで割れを防いでいるのです。

ヨーロッパや中国ではこの焼刃土を使わずにダイレクトに焼き入れをしていた為、焼入れの効果が減衰し、且つ衝撃がダイレクトに伝わる為、日本刀より切れ味が悪くなり、欠け易くなっていたと考えられます。

中国やヨーロッパでの鉄鉱石を利用する製鉄方法では、硫黄が混ざっている場合 鍛造時に割れ目が多く出るようになり、鍛造が上手くいかなくなりますし、燐を多く含んでいる鉄鉱石はそれだけでも鉄の質が悪くなります。

また、マンガン等の不純物も混入してくるので、ますます質が低下する上に、日本の砂跌を使う方法に比し、融点が高くなる傾向にあり、結晶構造も大きく靭性に欠ける側面があります。

また、木炭は石炭やコークスに比し、低温で鉄の還元性が高いので、良質の鉄を製造することができたので、古代初期には中国・西洋でも木炭を使用していました。

ヨーロッパや中国のように高温処理をしなかったと言うよりは、できなかった日本のみが実現できた 日本刀の強靭な切れ味だったのです。

以上が鉄成分と温度変化による組成の変位についての少し難しい説明を加えながら日本刀の焼き入れ処理について説明しました。

なんとなく理解できれば、これから述べます刀工の実際の刀作成手順での組織中に起こっている変化はどういうものかを良く理解できると思います。

 

焼入れが終わると、合(あい:焼き戻し)を取ります。

火炉の入口付近に入れて、鋼の温度を150度〜200度に保ち、焼き入れ時の残留応力を減少させ、鋼中の未変化粒子を安定化して、鋼に粘りを与える為です。

焼き戻しという作業は、焼入れ以上に変化に富み、面白い現象を醸し出します。

焼入れ(オーステナイト状態にした鋼を急冷)後にマルテンサイトの結昌組織ができますが、これを400度程度にて焼き戻しを行うと、硬度が有り脆いマルテンサイトからFe3C

への化学変化によりCを吐き出させ、トルースタイトと呼ばれるフェライトとセメンタイトの混合組織となります。

トルースタイトは硬度のバネ性はありますが、ビッカース硬さは400HVとマルテンサイトよりは軟らかくなります。

 550度から650度で焼き戻しを行うと、ソルバイトと呼ばれるフェライトとセメンタイトの微細な粒状組織ができ、ビッカース硬さは270HVと更に軟らかくなります。

セメンタイトの細かく折出させた組織が全体にまぶされた様になり、強度と靭性がバランス良く、今日では構造用鉄鋼として用いられています。

 ここで注意すべきは、トルースタイト、セメンタイト、ソルバイト等は全て焼入れして出来たマルテンサイトが変化した物だという事です。

日本刀では、棟や地鉄等にトルースタイト、セメンタイト、ソルバイト等の組織が認められるので、焼き戻しが理想的な150度〜200度のみではなかったという疑問が出てきます。

私的想像では、通常の焼き戻しが終了した段階で、刀の横方向への曲がりや捩れが発生している事があるので、それを微調整する為に刀工がマルテンサイト変態温度域の400度以上に加熱し、小鎚で訂正打ちを行った後、冷却したのではないかという妄想をするのです。

 刀鍛冶の最後の工程として、荒砥をします。

斬るという事に特化した刀を、鍛冶職人の思い浮かべる精錬された形にすべく、荒砥で形を整え、研師へ渡します。

 刀専門の研師は、切れ味を良くする砥は当然ですが、それ以外に、その刀の持つ優美さも表現することが要求され、それは下地研ぎで決定されます。

目の粗いものから細かいものへ6段階の砥をします。

 研師は、次に白銀師へ刀を渡します。

刀を鞘に入れて保存する場合の要となる「はばき」を作り、刀に嵌めます。

「はばき」とは、刀身と柄の間に付けて、柄の中で刀身を浮かせてがっちりと固定する金具です。銅板を2cm程度の幅で刀区と棟区(柄の鯉口前後部分)を上から包み込むように細工します。

刃側の空いた部分に区金と呼ぶ銅の細棒を入れて銀蠟で接着して、茎(なかご:握り手の中に入る部分)に合せて金槌で成形して、刀区と棟区に収まるようにします。

最後に薄い金板をはばきに被せて装飾します。

 次に鞘師へ刀を渡し、朴の木(10年以上寝かせて収縮が止まったもの)を刀身に合せて左右2枚に分けて、先程の白銀師で作られたはばき部分を収める鯉口(堅牢性が入用なので鹿角等で作られます)と刀の切っ先の棟部分1点で支えるようにして、鞘内部には刀身が触れないように削り出します。

これは、刀身が極力錆びない様にする為であり、細部にいたるまでの機能性を考えられずに、単に収納するだけの西洋や中国の鞘では考えられないことです。

芸術性すら感じられる機能的な緻密さが其処彼処に感じられますね。

柄の握り手部分も作りますが、此処は嵌め込む部分なので、逆に密着するように細工し、目釘(柄と刀を固定する楔)の穴を開けます。

 次に鞘を塗師へ渡し、何度も漆を塗り、頑丈に防湿防水機能が働くように塗りを重ねます。

柄は柄巻師へ渡し、柄に左右から鮫皮を貼り、上下押えとして薄く削った板を松脂で接着して細紐で特殊な巻き上げ方をして、締めていきます。

鐔師には、はばき通りの穴が空いた鐔を下絵通りに作って貰います。

これ等の作業が終了すると、刀は再び研師の所へ戻ってきます。

研師は、刀身の地肌(軟らかいトルースタイトの中に硬いセメンタイトやソルバイトが点在)を鳴滝砥と呼ばれる硬い砥石の薄片で砥ぎ、硬い組織の模様を、軟らかい組織をほんの少し削ることにより浮かせ上げます。

次に拭いと呼ばれる光沢を与える作業を行います。

鍛冶で鍛造する時に飛び散る酸化鉄を材料に、これを長時間加熱後 微粉末にしたものを丁字油と混ぜて濾した液体で磨いて、表面粗さをミクロン単位で平滑にします。

次に、刃取りと呼ぶ刃文を白く輝かせる作業を行います。

拭い作業よりも細かい、内曇砥の砥汁を使い、マルテンサイト化が進んでいる硬くて脆い部分をこれもミクロン単位で磨き上げます。

次に、鎬筋から棟にかけての鎬地を、先端が丸くなっている鉄棒で磨き黒光りさせます。

最後に、刀は鍛冶へ戻り、刀匠が銘を切り、パーツを嵌め込み完成となります。

 

 日本刀は、ほぼオーダーメイド製品であり、個々人が使用する場合に最適に作られています。

非常に性能の良い優秀な武器を持つ、連戦練磨の死を恐れず、仕留めた相手の首を取る日本の武士達は、フビライの元・高麗の兵隊の数がいくら多くても、相手にしてはいけない人達だったのです。

この事件は、後々まで影響力を持ち、大航海時代以降 欧米諸国に日本侵攻を控えさせる一因ともなっていきます。